マジですか?というわけで、今回はESFJの生きづらさについて考えていこうと思います。
一般的に生きやすい部類のように思えるESFJですが、やはりESFJにはESFJなりの悩みや苦しみがあるわけですね。
今回やっていくのは、そこのところの考察。これを機にESFJに対する理解を深めていければなお良しですね。
ESFJがなぜ生きづらいのか
優しすぎる
やはり1番考えられる要因は、その人の良さがマイナスの方向に向いてしまったというケースでしょうか。
ESFJは自分の周囲の空気感や不和な空気に敏感で、対立やギスギスした状況を避けようと奔走するところがあります。
そんな優しさがあるからこそ世間からは受け入れられやすいですが、同時にその優しさが仇になっているところもあるわけですね。
具体的には、周囲の不和の解決に必要以上に奔走することで、いつの間にか疲れ果ててしまうところがあります。
周囲のギスギスに介入し、解決し、また別の場所で生じたギスギスに介入し……そんなことを繰り返しているうちに、「疲れた」「自分って生きづらいんじゃ?」と感じる人も出てくることでしょう。
騙されやすい
ESFJはちょっと騙されやすいところがあります。というのも、自分と仲の良い人や友人だと思った相手にはガードが甘くなり、警戒心を持ちづらくなってしまうからです。
相手目線から言えば、「友達にさえなってしまえば簡単に騙せてしまう」と言えるわけですね。
基本的に関係が深い相手や良い関係でいる相手のマイナス面を見ようとしない性格をしています。そのため、気づけば騙されて損失を押し付けられたり本来得るはずの利益を奪われたりしていることもあり得ます。
生きづらさを抱える要因は、こういうちょっとそんな部分にもあるのではないでしょうか。
模範生すぎる
ESFJは模範生みたいなところが少なからずあります。要するに、常識的に考えうる限り最高に近い存在を目指すところがどこかにあるというわけです。
模範生を目指すには、まず自分なりの基準や自分の感情といったものが邪魔になります。そのためESFJは、自分の気持ちや本音に疎くなります。
その上で「周囲が求める姿」「周囲に認められやすい姿」を目指すので、どうしてもどこかで封印した本音やニーズが暴発したり不自然な苛立ちや疲れとして現れたりすることもあるのです。
そういった背景から、漠然と生きづらさを感じるESFJも結構いそうですね。
わかりやすい答えに振り回される
ESFJはお世辞にも「既存の価値観にない自分なりの考えをまとめる」といったことをするタイプではありません。どちらかというと既存の道徳観や価値観・常識に則って周囲に接し、呼びかけていくタイプです。
こういった一面も、また騙されやすかったり無茶を押し付けられやすい部分だったりしますね。
あえてNTたちが好みそうな言い方を選ぶと、「自分で考えることが苦手」なタイプと言えます。
自分なりの意見というより一般論に終始している人も少なくなく、そういう意味でも常識やルールに左右されやすい人たちですね。
あとはもう、常識だのルールだのに振り回されている人たちがどういう思いで日々生きているかを辿れば自ずと答えは出てきます。
自分というものが出せず、自分を見失い、苦しいのにそれを当たり前と甘受してしまう。そういったところもある人たちです。
お節介焼きが仇になる
私の周りでも、ESFJは困っている人を黙って見ていられない人は多いです。要するに、お節介焼きですね。
ついついいろんな面倒事に自分から首を突っ込み、磨耗し、消耗していく。そんな人たちも結構な数見かけるタイプですね。
正直、生きづらいのもちょっとわかる気がします。自分から面倒事を背負い込み、周囲から疎まれたり体のいい道具と思われたりしながら消耗していくわけなので。
兎にも角にも性格いい奴すぎる
というわけでまとめてみましたが、とにかくいい人すぎる。それが一番の問題と言えるでしょうね。
とにかく人がよく、困っている人がいたら放って置けず、喧嘩や諍いがあれば仲裁せずにはいられない。そういう人たちです。
その姿勢がありがたがられたり時にはウザがられたりしながらESFJの交友関係や人間関係は広がっていくわけですが、残念ながらそこにはESFJ自身の我のようなものはあまりありません。
勘違いのないように書いておきますと、ESFJは我というか押しや周囲への価値観の押し付けは結構強い方です。ただ、それらは何というか一般論なんですよね。自分なりに納得のいく答え(内向感情Fi)とは明らかに違う。
また内向思考(Ti)も遠いため、自分なりに納得できる答えとかしっくりくる正解のようなものにも疎い。
ひたすら世間一般に言われる正解を唱えているようなものです。
そんなわけなので、知らずのうちに疲れやフラストレーションが溜まっていきます。
この疲れやフラストレーションこそが、ESFJの生きづらさの原因なのではないでしょうか。
要するに「いい人をやめれば少しは楽になるのに」というこれまた月並みな一般論を言いたいわけですね、この筆者は。
言うべきことはその通りだけど一般論者に一般論で対抗すんなよと……
ESFJが生きづらさを覚えにくくなるには
残念ながら、完全に生きづらさを消し去るのは不可能です。ただ、やり方次第では生きづらさを多少でも緩和することも可能になります。
最後に、私なりにそこのところを考えていきたいと思います。
あえて見守る優しさもある
ついつい問題を見過ごせずに手を出してしまうのが、ESFJの良さでもあり悪さです。
というか、正直それさえある程度制御できれば、生きづらさに関する問題は、自分でできる部分に関してはほぼクリアしたようなものなのではないでしょうか。
物事には、手出ししないほうが結果としていい方向に向かうこともあります。
雨降って地固まると言う言葉とかまさにそうですし、できないことを自力でできるようにならないとなかなかコツとかを掴めないケースもあります。
何でもまず手を貸すのではなく、ちょっと見守る時間を意識的に作ってみてはいかがでしょう?
みんなに好かれるのは神様でも無理
どんなに頑張っても、嫌ってくる人は嫌ってきます。これは絶対にあることで、たとえ神様であっても避けられません。
それこそ「顔が不快」という理由だけで不倶戴天の親の仇のように接してくる相手もいますし、「理由はないけどキモい」という超絶曖昧な理由で流言を流しまくる悪質な輩もいます。
結局、嫌われるのは避けられないんですよね、どうやっても。
いい人をやめてみるというのは個人的には半分賛成半分反対と言ったところですが、みんなに好かれるのだけは諦めた方が気持ちは楽ですね。
自分のニーズがあっても構わない
ESFJの人たちを見て思うのですが、自分のニーズを封印しなければならないという気持ちをどこかに抱えていませんか?
一般論を語り周囲に求めるときとは打って変わり、自分なりの意見や自分の気持ちを言う時になると急に臆病になったり、そもそも自分というものを持たないようにしているところがあるように感じます。
となれば、まずは一度自分のニーズや本音をしっかりと言葉にするまで考えてみること、そしてそれをしっかりと吐き出せる環境は必須なのかなと感じています。
要するに、ESFJが自分を持たないいい人をやめられる環境ですね。
いきなり「いい人やめろ」なんて言われても無理でしょう。というか、みんながいい人をやめればカオスな世界になるに違いありません。
ですが、いい人をちょっとやめられる環境を持つことで生きやすさが大きく変わってくるのもまた事実です。
いい人というのは、自分自身が苦しい思いをする人でもあります。
今すぐこの場で全部を捨て去る必要はありませんが、別にいい人でいなくてもいい環境があっても構わないとは思いませんか?
まとめ
結局、いい人をやめられないことがESFJの生きづらさに直結する原因なのかなというのが私なりの意見になります。
要するに、性格いい奴すぎて自分の首を締めてしまっているところがあるわけです。
正直言って、つらい思いをしてまでいい人でいつづけるほど、周囲に対して義理も義務もある人の方が稀だと思います。
とはいえ、いい人を完全にやめてしまうのもそれはそれで無理があるでしょう。
個人的には、いい人をやめられる環境を作ってみることが一番根本治療に近い気がしますね。
まあ「それが難しいんだ」という声が聞こえてきそうですが……「自分の本音を受け止めてくれるかどうか」で相手を選んでみるのも、時には悪くないのではないでしょうか?
といったところで、今回はここまで。
普通のESFJ解説もやってますので、よろしければそちらもあわせてご覧くださいませ。
筆者:春眠ねむむ
X :@nemukedesiniso
threads:@shunmin.nemui
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