誰からも嫌われないのはほぼ不可能!他人からの否定を深刻に考える必要は特にない!

人間関係いろいろ
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人間、いろんな人がいます。で、当然ながら考えもあります。

例えば理屈と情緒のどっちが大事かという質問に「理屈」と即答する人もいれば、「情緒」と答える人もいる。そこに優劣なんてありませんし、自分と反対の答えを出した人を頭ごなしに否定するほどつまらないこともありません。

人にしても同じです。みんなで同じAさんを評価しても、「好き」「ゆ有能」と手放しに褒める人もいれば、「あいつはクズだ」と毛嫌いする人がいても何らおかしい話ではありません。

まあそんな感じにいろんな価値観・いろんな考え方が混在している世の中です。例えば誰かから否定されたり非難されても、あんまり真に受けるものではありませんよ。

所詮その人の主観、当人の目線からの考え方にすぎません。

評価は主観でできている

人からの評価なんて、それこそ主観で凝り固まっていてナンボです。それこそ、一切の感情を抜いて客観的・俯瞰的に人を評価できる人など、それこそ世界に数えるほど。

どれだけ利口ぶっても理知的ぶっても、人は感情や個人的な好みからは切り離せません。客観視をしようと心に決めていても、自分の好き嫌いや自分が認めた才能ばかりを軸にしてしまうものです。

わけのわからないもの、自分には価値がわからない物、何となく苦手な顔つきや性格……こういう先入観の塊が人の評価を不当に下げてしまう。

こういう不当評価を避けようとしても、どうしても避けられないのが人の見る目というやつです。

あかつき
あかつき

会社とかの人事評価もそうですよね。

能力だけじゃなくて、上司の個人的な好き嫌いも評価基準に含まれます。

最後には、媚び上手と顔のいい人が勝つ……

私が言いたいのは、主にこれです。

主観をいかにも「自分が全部正しい」みたいな顔してまき散らす奴の言動を、いちいち気にする必要がありますか?

人事評価に響いて左遷やクビの憂き目にあるなら、自分を変えるか職場を変える必要があるでしょう。
周囲に誹謗中傷をまき散らされてるとかいじめに繋がる兆候があるなら、逃げるか法的対処の準備をするのが先決です。

ですが、もしこういう実害が無い……例えば「嫌われて傷ついてる」とか「否定されてショックだ」とかそういう状況なら、気にしたところでいいことはありません。

相手の真意がどうであれ、「あなたの中ではそうだね」とでも心の中で思ってみてください。正しいとか正しくないとか、そういうのがどうでもいいことに見えてきますよ。

2:7:1の法則

アメリカのカール・ロジャースという心理学者が提唱した理論に、2:7:1の法則というものがあります。

理屈はこうです。

周りに人が10人いたら、その内訳は
気の合う人   :2人
どうでもいい中立:7人
気の合わない人 :1人

となる。

要するに、2人には何だかんだ好かれ、1人には何をやっても嫌われる。残りの7人は無関心で、その場の空気次第で好かれも嫌われもする、と。

あかつき
あかつき

ここの著者に対する印象に限っては:7くらいの割合な気がしますけどね。

まあ、あくまで目安ってことです。

何が言いたいかというと、所詮10人に1人は、「あなたの存在自体が気に食わない」なんてとんでもないマイナス評価の奴がいるという事です。

決まって、面と向かって否定を繰り返したりボロカス言ってくるのは、10人いる中の1人に過ぎないというのを頭の片隅に入れておいてください。

「私を嫌う人もいる。でも好いてくれる人もいる」と。こう考えるだけで、なんだか少し気が楽になりませんか?

何をしても嫌ってくる人の事は「気にしない」!

で、じゃあこの「何をしても気に食わない」って10人に1人の人から好かれるためにどうすればいいかというと……ざんねんながら、やれることはありません。諦めましょう。

人間に限らず、動物は好きなものを手元に置いて、嫌いなものをとことん排除することで身の安全を確保してきました。

食われる可能性のある野生の肉食獣を、何も考えず撫で回せる人はまずいません。

道端に放置されてる犬のフンだって、わざわざ好んで踏みませんよね?

ゴキブリを素手で捕まえられる人も、決して多くはないでしょう。

こんな感じで、人間には危険や不快なものを本能的に避けたり排除してしまうところがあります。

まあフンやゴキブリと一緒くたにされてしまうのも不愉快かもしれませんが……やはりどうしても相容れない人間をそういう目で見てしまうのが感情であり防衛本能というやつで。

ぶっちゃけ、「嫌い」は本能です。本能から拒絶されては、どうやっても手の出しようがありません。

頑張って恩を売っても変に曲解されて余計嫌われるだけ。とりあえず「人を汚物扱いする失礼な奴だ」くらいに思って軽く流し、原則スルーを決め込みましょう。

「否定=嫌い」は早計?

補足として覚えておいていただきたいのが、「否定されたからって別に嫌われてるわけじゃないよ」ということです。

  • 議論の場で、自分の意見が誰かに否定された。
  • やりたいことに対してダメ出しされた
  • ミスや失敗を怒られた

とまあ、主にはこういうケースですね。この場合、「否定された」といっても嫌われているとは限らない事を覚えておいてください。

上記の例に限って言えば、否定されたのはあなたの提案や行動であって、あなた自身ではない。あなたの行動や考えに思うところがあっただけで、必ずしも好きとか嫌いに直結しません。

要するに、「あなたの“行動が”ダメだと思う」「あなたの“提案が”受け入れられない」と。よく聞いてみると全否定とは意味が違います。単なる忠告である可能性も普通に考えられるわけですね。

なので、否定された時には躍起にならず、1度冷静になりましょう。それこそ、「あなた目線じゃこの行動、この考え方はダメなんだね」と。

そうやって一回クールに受け流すことで、見えてくるものもあります。

もっとも、忠告や反対意見が正しいのかどうかはやってみないとわかりませんが……少なくとも、反対されたから「敵だ」と決めつけて自分から敵を増やしてしまうのは、ちょっともったいない気がします。

全員から嫌われずにすむ方法

日本人なら、「みんなと仲良くできない奴はクズ」みたいな価値観に1度は出くわしたことがあると思います。

こういう考えは基本的に管理する側からすると非常に楽ができるので、毎度のようにもろ手を挙げて称賛されてますね。

ですが、ぶっちゃけましょう。全員から嫌われず全部を円滑に進める方法……正直言って無理です。そんなものありません。

だいたい、嫌いって感情は本能ですよ、本能。陰湿な排除もいじめも、(擁護する気は一切ないけど)「嫌いなものを消す」という防衛本能が悪さしてる部分は否定できないと思います。

「この世の誰も嫌いになるな」というのは「人間であることを捨てろ」と無茶振りしてるようなものですし、「誰からも嫌われるな」ってのも無理な話です。

こんな話を聞いてるあなたは、多分非常に優しい方なんでしょう。

だからこそ無理をしていろんな人に合わせては、結果が振るわずダメになる……何となく、そんな姿が目に浮かびます。

ですがまあ、だからこそ言いましょう。もっと我を出して生きなさい、と。

少しでも人から嫌われないための一番合理的な方法は、自分自身を殺すことです。個性や人格を無くせば、まあ10人に1人の「嫌い」という評価を20人に1人くらいに減らすことはできるでしょう。

ですが、自分の軸が無ければ「好き」と思ってくれる人が現れません。だって接してても無味乾燥でつまらないですからね。

嫌われないための振る舞いに全力を尽くす人は、決まって人から好かれにくいです。せいぜい、完璧に自分を捨てたところで得られるのは10人中10人の「どうでもいい奴」が関の山。

10人に1人の「嫌い」を多少減らすだけのことに、2人の「好き」を犠牲にするだけの価値があるのでしょうか?

せっかくです。嫌ってくる人が10人中0になるよう頑張るより、2人の「好き」という思いを大事にしませんか?その方が優しさも際立つでしょうし、あなた自身も居心地がいいはずですよ。

存在の否定は人として論外

もうね、この記事見てる人が「嫌われて傷ついてる側」であろうことを期待してめっちゃ好き勝手言いますね。

私は、単なる「嫌い」を「人間的にダメ」「無為無才のゴミ」みたいに人間的価値と結び付けて語る奴が嫌いです。

というか見てると虫唾が走りますし、実際鳥肌が立ったこともあります。

てなわけで、ここからは主観ばかりの無駄話。嫌な方はブラウザバック推奨です。

こういう主観と正義を履き違えてる奴らとは、基本的に話をする必要はありません。話通じませんし。こっちの言う事聞いてませんし。

そもそも、人の存在価値も強みも、1個人の主観だけで測れるものではないんですよ。

特技も性格もどこでどう役に立つかわからないし、そいつ1人が否定したところで他所に行ったら評価されるかもしれない。

「お前はどこに行っても絶対に上手くいかない」なんてのは、所詮そいつの中のちっぽけな「全世界」という名の妄想の中での話にすぎません。

厳しさがストイックな場では有用性を発揮するように、弱者の前でもっとも力を振るうのは優しさです。

いらん哲学も、こうやって人生を楽に生きるために案外有用に使えます。

世界は、思った以上に広いです。その場ではゴミみたいな特技や特性も、場所を変えれば輝くこともあるかもしれない。

とりあえず自分が嫌いなだけの人を全否定する奴は、その辺がわかっていない。世界が全部、自分の頭の中だけで構成されてるとでも思ってるんじゃないでしょうか?

こういう一元的なものの見方しかできない人には、ぜひとも自分の常識が通じない場所に引っ越してもらいたいものですね。必死に違う価値観に合わせようとして嫌気が差すのか、はたまた周囲に「お前らは間違っている」とわめき散らして孤立していくのか……。

彼らが他人の価値を理解せず「無い」と切り捨てているように、私も主観だけで切り捨てましょう。凡愚とは、まさに自分にわからないものを「無価値」と切り捨てる以外に手札が無いの奴らの事を指すのではないでしょうか。

……まあ、何だかんだ言って連中にも余裕が無いだけだと信じたいところもありますがね。

あかつき
あかつき

そもそも、「嫌い」なんて主観的な感想を「正義」「正論」みたいな顔して一方的にぶつけるって、おこがましい話じゃないです?

否定はその人の価値観でしかない

さて、途中ちょっと滅茶苦茶書きましたが……まとめましょう。

ぶっちゃけ、その人の評価とか価値とか善悪とか、そういうのは単なる個人的な主観以外の何でもありません。

つまり、評価なんぞあくまで本人目線での話に過ぎないし、嫌いなものを「悪だ!」と否定するのは「私は器が小さいです」と自分から言っているようなものです。

人から指摘や批判を受けたとしても、「そうだね、あなた目線じゃそうかもね」とでも思って軽く流し、冷静になるまで思い返さないようにしましょう

違うものを敵視しかできない奴を相手にしても疲れますし、そもそも自分が「違う意見だから敵だ!」と安直に決めつけてしまっては後々孤立してしんどくなってしまいます。

どうせ本人目線でしかない一元的な見方です。正しいのか間違っているのかなんて、結果から逆算しないと誰にもわかりません。

否定・反対されたから、嫌われてしまったからとわざわざ気にする必要はありません。どうせ人生の中で出会う10人に1人は敵なんです。

「嫌われても否定されても自分の価値は変わらない」と考え、気楽にやりましょう。

意識すべきは、「嫌い」よりも「好きでいてくれる人」ですよ。

あかつき
あかつき

こう言ってますが、本当につらかったら「気持ちをありったけ書きなぐってみる」のもいいと思います

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