【エニアグラム】タイプ1の幼少期を考察してみる

エニアグラム
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今回も幼少期ネタですね。タイプ1が子供時代にどのように過ごしていたのか、資料を見ながら考察していきたいと思います。

きっちりしていると言われる反面何かと自分の考える正しさを巡って暴走しがちなタイプ1ですが、いったいどのような幼少期を辿ってきたのでしょう?

今回はその辺を資料を見ながら考えていきたいと思います。

タイプ1の幼少期

まずは例の如く、資料から幼少期の状態を探っていきましょう。

タイプ1は己のままに成長する。なぜなら、彼らは幼いとき、保護者像との結びつきを断っていたからである。保護者像とは幼児期でも初期に出会った大人で、必要に応じて子供に限度を設け、指針を与え、規律を守らせる責任を負った人物である。これは家族の中で伝統的な家父長の役割を担う人物である。

ー中略ー

細かい違いはどうであれタイプ1は、保護者像から受け取った社会構造や指針に不満であったし、失望もした。また。自分自身の指針をつくり上げなければならないと感じた。自分に期待されているものよりも遥かに厳格な倫理規範を生み出すことによって、生まれた家族のルールを越えようとした。こうしてタイプ1は、常に悲のうちどころがないようにしていれば、非難を避けることができると信じるに至った。

性格のタイプ P498

【タイプ1】の子どもは、堅実さ、規則正しさ、清潔さを心の奥深くで求めているため、不安定な毎日、うわついて享楽的で、不規則で不潔な生活は耐えがたくなる性格です。また、タイプ1は父親に意識が向けられているため、父親の人格が高潔であること、指導力があり間違ったことをせず、努力家で公正な人であることを求めています。

ー中略ー

それゆえ、たとえ現在は努力していないとしても、それは追い詰められて苦しい状態にいるので努力できないのだと考えられます。ですから、叱ることなくのんびりしていても大丈夫であると伝える必要があり、特に父親に褒めてもらうことを願っているので、父親の役割が大切になります。

究極のエニアグラム P228,229

どちらもキーパーソンは父性を持った人物ですね。片方は父親に失望して「自分がしっかりしないと」と奮起し、もう片方は父親に高潔さを求めて自分もかくあろうと気を張りすぎる性分のようです。

あかつき
あかつき

究エニって普通に独自理論展開しますからね。親への定位から実際の性格まで、意外と結構違うものです。一般論とどっちが正しいかは知らんけど。

というかやっぱ竜頭氏、性格が形成された後のことを語ってないです?

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共通点と相違

一概に言えるのは、「しっかりしたい」「気を張っている」ということと、父親的な存在と非常に深い関わりがあること。

そして何より、タイプ1らしくしっかりして子供らしくない面がありそうですね。

一方で違いはもう、父親との関係の何もかもですね。

さっくりとまとめるとこんな感じでしょうか。

共通点

きっちりとしたい気持ちが強い
人の非難を恐れ緊張感がある

相違点

父親的存在への思い
なぜしっかりしたいかという動機

総じて言えるのは、親に失望して独自路線を突っ切ってるのが性格のタイプ(一般論)、親に認めて欲しいからこそ全力で完璧を目指すのが究エニ(竜頭氏の持論)といったところでしょうか。

もう完全に真逆ですね。竜頭氏の持論を信じるなら、親のために全力を出すタイプ3と間違えやすいタイプになってきます。

一方の一般論は、なんというか本能センターらしさがありますね。親から離れ、自分の足で生きていく力強さを感じます。

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結局どっちが正しいのか

これまたどっちが正しいとは言い切れませんが……とりあえず言えるのは着眼点の違いでしょう。

タイプ1は少なからず誰かに認めてほしいという承認欲求や否定されたくないという恥の感情を持っており、それが「非難されないよう完璧にしなければ」という強迫観念につながっています。

その「認めてほしい」「否定してほしくない」という感情が向く先が世間か、それとも父親かの違いになるでしょうね。

もっとも、竜頭氏も親への定位の途中で「頽廃的で自堕落な父親であれば相当に苦労するでしょう」とも書いており、その点を加味すると個人的には一般論の方が使い勝手というか当てはまる範囲としては広そうですね。

あかつき
あかつき

人格形成期の子供の話として見ると、父親への接し方や見方だけは本当バッティングしてるんですよね。ここが面白いところであり難しいところ……

タイプ1は自分目線での正しさや公平さを非常に意識するタイプです。そしてそれは、「見ている人に対して恥ずかしいところがないように」との思いの強さで成り立っていると言ってもいいでしょう。

性格のタイプと究極のエニアグラム、両者の意見の食い違いはその見ている人が世間なのか、親なのかの違いと言ってもいいのかもしれません。

要するに、どっちも「人から間違いを指摘されたくない」というのが動機になっているわけですね。

人に間違いを指摘されること、批判されることを嫌うからこそ完璧を求め、高潔であろうとし、自分なりの正しさを追求するのです。

父親に関するコンプレックス?

形はどうあれ、タイプ1の意識が父親やそれに近い存在に向いていることはまず間違いないでしょう。

「家父長として、あるいは個人として他所様に恥ずかしくない完璧な自分を目指す」という動機も、形はどうあれ父親的な存在を介して生まれてくるものです。

その父親が家父長として恥ずかしいものだったのか、あるいは「立派な存在であって欲しい」と願える余地のある存在だったのかは状況にもよりますが……いずれにせよ、家父長や保護者の姿を見て何かを感じ取ったことには変わりありません。

父親から何かを感じ取り、「自分は恥ずかしくない存在になろう」と志し、やがて他人にもそれを求めるようになる。

ある意味、父親に関しては強いコンプレックスがある人と言ってもいいかもしれません。

タイプ1の完璧主義が人に向く瞬間

さて、最後にちょっと考察。タイプ1の完璧主義は他人に対しても発揮されますが、それはなぜなのか。

これは一般論ではしっかりと言及されていますが、竜頭氏の親への定位では特に説明がありません。というわけで、そこのところを詰めていきたいと思います。

タイプ1はいくら高潔で完璧主義と言っても、やはり人の子。人並みに「ずるい」という感情や「なぜ自分だけ」と疑問に思う瞬間が訪れると思います。

タイプ1の子供は、そういう時に「周囲の子はみんなずるい」「みんなだけ遊んだり気楽にしていい思いをしている」という不公平感を覚えるのでしょう。

そしてそんな思いはやがて、「みんな遊んでばかりでダメな子だ」「みんなしっかりしてない」という周囲への怒りや落胆に置き換わります。

さらにその怒りや落胆の気持ちは、「自分こそが周囲を導かなければ」「自分だけが正しいことをしている」というある種の使命感となり、そこで初めて人前に表出するわけです。

心理学的な言葉を用いるなら、ラケット感情(偽物の感情)ですね。タイプ1はラケット感情を重ね掛けすることで自身の周囲への干渉を正当化し、周囲を”正しい形”に当てはめようとするわけです。

大人でもおおよそこんな感じの心理が働いていることでしょう。

子供ならばなおのこと、適当だったり遊び回ったりしている子供を「ずるい」と思っても仕方のないことです。

ともあれ、おおよそタイプ1の子供が自分以外にも正しさを追求し始めるのはこんな感じの過程があるのではないでしょうか?

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まとめ

今回はタイプ1の幼少期・子供時代の状態について考えてみました。

おおよそタイプ1の子供が出来上がるには、家父長や保護者への一種の失望があるのかもしれません。その気持ちが「自分こそがしっかりせねば」という想いにつながり、そうやってタイプ1らしい自他に厳しい性格が形成されると。

あるいは「お父さんしっかりして」という願いがあり、その願望とともに自分もしっかりしようとする感じでしょうか。

個人的には前者が先にあり、人格が形成したのちに後者へと移っていく流れが自然なように思えますが、どうでしょうか?

形はどうあれ、タイプ1の子どもはタイプ1らしくしっかりしており、良くも悪くも子供らしさが少ないのが特徴でしょう。

といったところで、今回はここまで。

普通のタイプ1の解説もしておりますので、よろしければそちらもあわせてご覧くださいませ。

筆者:春眠ねむむ
X :@nemukedesiniso
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