こんな意見を見ました。
「私は信仰を超越している。なぜならAIが抽象的だと言ってくれたし、人には理解されづらいし、哲学的なことを考えているからだ」
これ、私個人は「俗っぽい自己評価だなー」という思いと同時に、「変わり者教、抽象教、哲学教」という言葉が浮かびました。あとAI信者の適性がある。
今回はそんな◯◯教、もとい信仰に関する雑感を込めたお話です。

雑感というか持論じゃねーか
そもそも何が信仰なのか
そもそもの話、信仰とは何なのでしょうか?〇〇教といった宗教や宗派といった狭義のものを指すのでしょうか?それとも「信じるもの」という広義の意味合いを指すのでしょうか?
例のごとくGoogle先生もといネット辞書に問いかけてみたところ、以下のような答えが返ってきました。
- 神仏などを信じ崇あがめること。経験や知識を超えた存在を信頼し,自己をゆだねる自覚的な態度をいう。
- 人を信じうやまうこと。信心
なるほど。これだけだと、一見すれば「神や人を信じないのであれば信仰とは言えない」という判断を下せるかもしれません。
ですが、ちょっと待ってほしい。
ここで言う神仏”など”とは、本当に神様仏様のみを指すのでしょうか?
コトバンク先生では、以下のような文言で語られていました。
- 特定の対象を絶対のものと信じて疑わないこと
要するに、神仏や宗教だけではない。自分があらゆる事象を超えて「これが正しい」と思ったものは、すべてが信仰であると言っても間違いではないのです。
信じるもの=信仰
絶対なんてありえない。多少賢い人ならば、まずたどり着く境地です。
ですが困ったことに、人は絶対の正解をどこかに求めてしまいます。
「理論に基づけば間違いない」
「偉い人が言っていた」
「神様なんてこの世に存在しない」
どれも強く念じたり絶対的な確信を持っていれば、それすなわち信仰に通じます。

筆者が勝手に思ってるだけですね。あんまり深刻に考えちゃいけませんよ。こいつの頭の中はカスみたいな思想や価値観も山ほどあるので
どのような信念も信条も、貫いてしまえば信仰です。「自分は何かに囚われるほど浅はかな人間ではない」というこの記事読んでる誰かが思ってそうな絶対の自信も、便宜上ですが「健全教」「賢者教」と呼べなくはないでしょう。
結局のところ、人の頭の中は信仰だらけなわけですね。神様仏様だけが信仰ではないと考えれば、誰しも何かしらの信仰を持っていると言っても過言ではないでしょう。
信仰は絶対
さて、少しは本題に触れましょう。
信仰とは何か。すなわち絶対的な信念や信条、思い込みといった類です。
「信仰などくだらない。理屈が全てだ」という考えも、言ってしまえば理屈への信仰です。
せっかくなので、この「理屈信仰」の例えを使ってみましょう。
こういう理屈を信仰する人は、基本的に何に対しても理屈を持ち出します。「こういうロジックが~」とか「これにはこういう理屈が立つ」といった具合ですね。
あらゆることを理屈、そこから生じる必然で片付けてしまうため、理屈以外の考え方を容認できなくなります。
そうやって凝り固まって出来上がっていくのが、理屈への絶対信仰です。
人が絶対的な信仰を得れば、それはすべてにおいて優先されます。
何を言うにも何をやるにも理屈が通っていなければ落ち着かず、場合によっては理屈で証明できないものを「存在しえないもの」と排除しにかかるかもしれません。

おやまぁ感情的。でも理屈で説明つかないもの、私もちょっともやっとしますね。
でも筆者が言いたいのは多分そういうことではない。どうでもいいけど
あるいは、「お気持ち教」とかは結構わかりやすいでしょうか。自分が傷つかないこと、不快な思いをしないことを教義としているので、ちょっとでも嫌なものを見れば、よくて遺憾砲、最悪発狂します。
まあある程度柔軟な人は他者の信仰に対してある程度開けた態度をとるわけですが(これも信仰と言えなくはないけど)……それでも、何かしらの信仰を持っているのは確かですね。そしてその信仰は自分の中では絶対のものであり、他の何よりも優先されます。
教義にないものを受け入れる難易度
率直に言って、信仰の外にあるもの、教義に存在しないものを受け入れるのはかなり難しいです。
特に難しいのは、教義に反する思想を取り入れる必要に迫られた時。自分自身の信仰が揺らぎかねないため、受け入れが非常に困難、最悪拒絶してしまいます。
例えばロジックを信じていれば他者の感情論の受け入れには非常に難儀しますし、逆に感情そのものを信仰すればロジックを「冷たいもの」としてはねつけたい衝動に駆られるでしょう。
たとえ受け入れることが合理的、正しい判断だったとしても、ついつい抵抗が生まれてしまう。これが信仰の絶対性ですね。
今「自分はどんな意見でも受け入れる」と思った方、あなたは人の意見を受け入れられない狭量な人です。なぜなら、「受け入れる」という自信が傲慢、あなたの器を超えた存在を視認できていないからです。
……どう思いましたか?不快な思いをされなかったでしょうか?腹立たしく思った方もいらっしゃるでしょう。
このように、自分自身が信じる姿形を否定されるのは非常に不快なこと。すなわち信仰の否定は不愉快極まりないこと。
自身の教義を否定するような信仰に出くわしたとき、不快な思いをする人は圧倒的多数派のはずです。
信仰はあらゆるものを超えた判断軸
信仰とは何か。その問いに対しては、私個人としては「全てにおいて優先される、あらゆるものを超越した判断軸」と答えたいですね。
人間、どうあがいてもフラットな存在にはなれません。何かしらの偏りがあるのが自然と言えるでしょう。
この偏りこそが信仰の正体。多分
「信仰など持っていない。自分は常に物事を客観視している」そんなことを思う方も、世の中にはたくさんいます。
実際、日本は神道くらいしか大多数が信じる宗教がありません。その神道も極めて曖昧で、もっと言えば昨今信じない人も増えています。
ですが、そういった方にも自分なりの哲学や正解があり、その哲学や正解を判断軸として頼っている。つまり人生哲学を信仰し、人生哲学を教義としてそれぞれの人生を歩んでいる。今回言いたいのはそういう論調です。
いくら「自分は信仰を超越している」「私は信仰の外側にいる」とうそぶいたところで、人生哲学や自分なりの正解という信仰からは逃れられません。人間そういう風にできています。
絶対の判断軸は、自覚の有無にかかわらず誰にでもある。そしてその判断軸はあらゆる価値観、理論よりも優先して展開されます。

筆者の頭の中にも、便宜上ですが神(笑)が存在しているらしいですね。アホだろ、絶対
改宗することもある
絶対の判断軸たる人生哲学もとい信仰ですが、その正体はあくまで人生哲学。当然経験や知識によってアップデートされていきますし、より信仰心が強まる人もいればあらゆる要素を吸収していく人もあります。
そして外部要因や自分の経験を吸収した結果、信仰の対象や教義もそれに合わせて変わっていきます。
つまるところの改宗ですね。「これこそが正しい」が存在しないのではなく、人生哲学のアップデートに合わせて信仰の対象が変化するわけですね。
人生哲学が無限に存在する以上、信仰も星の数ほどあります。その何でもありの信仰対象が学びによって変わることも、ある意味では必然と言えるでしょう。無茶苦茶な理屈なのは自覚してる

実際の宗教でも改宗という言葉がありますね。神様が信じられなくなったのか、さらに上の存在を別の宗教に見たのかは知りませんが
とはいえ、基本的に「何を信仰するのが正しいか」という軸がズレることは極めて稀だとも思います。人間、そう簡単に変わらないでしょうし。
そういう意味では、「改宗は基本的にありえない」とも言えますが……なんかめんどくさくなりそうなので深く話すのはやめておきましょう。
信仰心の是非
さて、信仰と言われるといい気分がしない人も多いでしょう。特に「あなたは何かを信仰しています」と言われたところで、反論できてもできなくても不快な思いが消えないという方も多いはず。
というわけで、最後に信仰心がいいのか悪いのかについても、ない頭で考えてみます。
結論から言うと、ケースバイケース。信仰心が善悪どちらに傾くか、そもそも善悪とは何かなど、ややこしいしめんどくさい基準が山ほど出てきます。
そこで、世間一般の善悪を基準としましょう。
信仰心のいい面
信仰心はその人の信念、折れない部分を表します。
折れないということは、その教義をひたむきに信じ続け、いかなる時も挫けず教義を掲げ続けることを意味します。
宗教などを見れば見えてきますが、厚い信仰心は人を勇敢にします。その信仰が前向きなものであればあるほど、困難な時でも信奉する価値観を武器に戦い続けることができるでしょう。
あとは深みですね。信仰とはその人が生きてきた軌跡のようなもの。人生哲学はあらゆる経験や知識、情報から成り立っており、人をその人たらしめる大きな要因となります。
一見すると量産型の人であっても、頭の中までみんな一緒ということはないでしょう。同じ「あの偉い人は正しい」でも、何をもって、どんな理由で正しいとしているかは人によって様々です。
信仰心は人の個性として輝くわけですね。信仰対象も教義も理由も無限にある以上、多くの人が似たような背景、信仰、教義を持つことは極めてレアです。
よくよく話を聞いてみると、十人十色で面白いですよ。
信仰心の悪い面
逆に悪い面はというと、信仰の正しさで凝り固まってしまう点ですね。
十字軍や自爆テロを見るとわかりますが、行き過ぎた信仰心は人を暴走させ、他者の価値観を否定し、場合によっては攻撃も辞さないことにつながります。
自分と違う考えを受け入れられない人は、得てして信仰心が強い人。その考え方は挫けない強さにつながりますが、同時に他者を排斥する狭量さにもつながってしまうわけですね。
特に多いのは善意で人に改宗を迫ったり、悪意を持って相手の信仰を打ち砕こうとするケース。
これらは相手の信仰を認められない、自分の正しさの絶対性を疑えないことから生じる暴発です。
もっとも、暴発と他者の信仰の否定・排斥が本当に悪なのかは天のみぞ知るといったところですが……少なくとも、された側がいい気をしないのは確かでしょう。敵を作ります。
唯一絶対の信仰から来るエリート意識も、信仰の危険なところでしょうか。
要するに、ナチュラルに他者の信仰を「下等」「愚か」と見なすわけですね。この場合は口や態度に出さない限り周囲への被害はありませんが、やはり人間。時折この他者を見下す姿勢が見え隠れしてしまう点は否めないでしょう。
まとめ
信仰は人生の集大成とも言える哲学・価値観であり、人をその人たらしめる重要な存在です。そして、人は信仰からは逃れられません。無論、信仰を超えた存在になることもできません。
信仰心はすべての人々に備わっており、それは神様仏様のみに向けられる狭義のものではない……というのが、私個人の答えですね。
また、その人の人生哲学や集大成・正解の判断軸という特性上、信仰はあらゆる要素よりも優先されます。これもまた、すべての人が抱える性です。
結局のところ、万物が信仰であり、あらゆる要素が信仰の対象になりえるわけですね。屁理屈っぽいですが、私はそう思っています。
信仰は決して悪いものではありません。付き合い方さえ間違わなければ、自分自身の強い味方となってくれるでしょう。正しい付き合い方如何がそもそもお前の信仰とか言わんでくれ
無論、人の価値観は無限大。とすれば、「自分は信仰など持たない」「信仰を超越している」という考え方も、私の理解の外側にあるだけで、当然ひとつの正解なのでしょう。
とは言ったところで、私も人間。心のどこかで「すべての人は何かを信仰している」という考え方が絶対の正解のように思っているところがあるでしょう。
結局、何を正しいとするかは人によります。それぞれの正解を大事に、できれば他者の正しさを排斥せず不快だし、自分が信じる道を行けるといいですね。


コメント