綺麗なものしか見なければ目が曇り、汚いものしか見なければ心が濁る

世の中
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世の中には、綺麗なことも汚いこともたくさん転がっています。

例えば散々不幸に見舞われ続けてすっかり弱りきった人がいるとして、そんな人を助ける人もいれば、逆に好機とばかりに「自業自得」「お前が原因だ」と責め立てて喜んでるような奴もいます。

そんな中で「弱っている人を助けた人」だけを見たくなるのは心情ですし、いつも周囲が追い打ちをかける人ばかりならば汚い事例ばかり見てしまうのも無理のない話でしょう。

ですが、そこで頑なに綺麗なものや汚いものしか見なければ、やはり弊害も出てきます。今回は、そんな綺麗なものと汚いものに関する所感を色々話していきましょう。

綺麗なものだけを見ると目が曇る

まず、綺麗なものに関して見ていきましょうか。

綺麗なものを見ると、心が洗われるように穏やかになりますよね。で、そういうものを見ていると、ついつい思ってしまうわけです。「これだけを見ていたい」、と。

しかし、あんまりにも綺麗なものしか見ようとしないのであれば、それはそれで重大な問題も発生します。

ぶっちゃけてしまうと、目が曇って現状を素直に見ることができなくなります

明らかに危ない人を信用してしまったり、目の前の問題を「見たくない!」と完全に無視してしまったり、人の暗い過去を無かったことにしたくて「作り話だ」と全否定することすらあるでしょう。

例えば人間賛美を謳って「困っている人はみんなが助けてくれるんだ」なんて言っていても、現状として世の中には食わせ物が大量にいます。

腹黒く人を救済するフリをして洗脳してくる輩もいて、そいつらは自己都合で無責任に人を振り回し、綺麗な言葉で誘導し、最後に用がなくなればどれほど借りがあっても平気で捨て去ります。

無論、いい人も少なくはないでしょう。本気であなたのことを考えてアドバイスや手助けをしてくれる人はいます。

ですが、「きっとみんなそうに違いない」と無根拠に信じてしまえば、最後に待っているのは天使の顔をした腹黒連中の餌食がいいところでしょう。

六韜という書物の七害(7種類の悪事)の中に、こんなものがあります。

・ことさら質素をよそおって粗末な衣服を身につけ、無為無欲を口にしながら実際は名声や利益を欲しがるのは、食わせ者です。このような人間を近づけてはなりません。

・口先がうまく、たくみに取り入って官職を求め、俸禄のためなら、勇敢で命まで投げ出すこともいとわない。しかし、国家の大事には無関心で、ただ利益を求めて行動し、空虚な意見を偉そうに説きたてる者がいます。このような人間を任用してはなりません。

六韜は所謂古代中国の兵法書、つまり帝王学の類の書物ですが……実際、こういう類の連中ほど耳当たりのいい言葉を選んで囁いてくるものです。

人の上に立つ気がなくても、こういう帝王学的な「ヤバい奴」の特徴は知っておいて損はないでしょう。

耳当たりのよさは害悪が多い?

聞き触りがよくて聞きたい言葉ばかりを言う人は、その真意は別として相手に媚びたり取り入ろうとしている意識があることは否定できません。

あなたが目上ならば、おそらく良く評価してもらおうと思っての事でしょう。一方で無関係者ならば、もともとそうやって人と仲良くなろうとする人なのか、あるいは何かしらの利益あってのことでしょう。

まあ、媚びること自体はいいのです。問題は、媚びるという行為の目的が何であるかと、言うとおりにしたらどうなるかです。

例えば少し前にネット上でしばしば見かけた、「嫌な仕事をスパっと辞めて、のびのびと好きに生きよう!」ってやつがそうですね。

私もあのセールスは受けたことがありますが……曰く、

辞めるのは早い方がいい!生活に余裕が無ければそれだけ好きなことに対して必死になって、結果として上手くいく!
とか何とか。で、次に言われたのは、
本当に余裕がなくなったら、この情報商材を買おう!これでお金をかけたぶん元を取り返したくなるよ!
……冷静に考えればわかりますよね。のびのび生きようと訴えかけてるのに、そのための余裕を持たせず、焦りから思考を麻痺させて好きに誘導する。これはそういう手法です。

まあだからといって「仕事はどれだけ嫌でも絶対に辞めないのが正解!」というのもまた極端だと思いますが……ともあれ、優しい言葉で誘導する人の本音の大半がこんな感じ。

聞こえのいい言葉で誘導しといて好きなだけ甘い汁を吸い、用済みになればさようなら。

良薬は口に苦しと言いますよね。時として甘い言葉よりも耳が痛い発言のほうが為になることもありますので、自分にとって綺麗なものかどうかだけで安易に判断しない方が、結果として幸せに繋がるでしょう。

汚いものの存在を否定しても現実は変わらない

世の中には我々が想像している以上に慈悲深い人も幸せな環境もありますが、同時に想像なんてつかないほど人間性が欠落した人間や想像を絶する地獄のような環境も、案外身近に転がっているものです

例えばよく聞く話では、親に虐待されて育った人に「虐待なんて存在しない!」「それでも親を敬うべきなのが子供だ!」なんて綺麗なものを押し付けたり、「嫌なら人間社会を捨てて山奥にでも籠ってろ!」と的外れな排除を始めたりと言った感じですか。

大抵こういう意見は結構な支持を得たりしますが……それで「見て見ぬ振りがしたいんだから汚い中で我慢して黙ってろ!」なんてやったところで、実際目の前で虐待が行われている事実は何も変わりません。

見たい見たくないは自由ですが、綺麗なものを見ていたい願望は、時に汚い環境の中で必死にもがいている人を自らの手で殺すことにも繋がります

興味が湧かず助けたくないのなら無視をすればいいだけですが、汚いものも実際に存在する世界のひとつです。
視界に入れたくないという思いは正統であっても、汚いものに強引に蓋をして、そこから抜け出そうとしている人が出られないようにするのはさすがに正義とは言い難いですよね。

汚い世界を見たくなくても、「存在しているから仕方ない」くらいには認知するようにしましょう。せっかく抜け出そうとしている人の努力を踏みにじらないであげてください。

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汚いものは心を濁す

じゃあ逆に汚いものはどうかというと、やっぱり見続けるのは良くないですよね。心が濁っていきます

濁った人間の末路は、何というかネット上には転がっていますね。

「綺麗なものだけを見たいんだ」という人に対する対応を見ればわかると思います。まるで「お前と違ってこっちは現実を見ている」と言いたげな上から目線、「そんな生き方は迷惑だ」という謎のお説教、「お前みたいなやつは口だけで信用できない」という意味不明なお気持ち表明のバーゲンセールです。

多くの場合、悪人の末路と同じような末路を辿るんですよね。

心が完全に濁りきれば、その先は修羅の道です。どうせ信用できないんだからと人を騙したり傷つけることにも抵抗はなくなりますし、何ならそれを楽しむことすらあるでしょう。

人は一度堕ちてしまうと、信じられないくらい深いところまで転落します。

悪人全員が汚いものを見てしまった結果そうなったとは思いませんが、そうやって悪の道に目覚めて汚く成功を収めていく人も少なくないのかもしれませんね。

人間不信の代償

人間不信の代償は、非常に大きなものになります。

それもそのはず、なんといっても、どこで何をしていても敵しかいないわけですからね。

本人も生きづらいですし、本来味方になるはずの人も信用できず敵に回してしまう事もあるでしょう。

何より、こういう人って他人の理解を得づらいですからね。特に人間不信気味の人は、他者からすると格好の軽蔑の的。環境でも「人を信じられない」という特徴でも、果ては味方の多さでもマウントを取れてしまうわけです。

そのため、一見善意で多く寄せられるアドバイスも、実際は上から目線で何か偉そうなものばかり。現実なんて見ずに、とにかく「お前は劣ってるんだから人間的に成長しろ」的な言葉ばかりをかけられ、余計に心を閉ざす羽目になってしまいます。

私は引き寄せの法則を全面的に信じているわけではありませんが……人間不信な人がわかりやすい悪人を引き寄せやすい点に関しては、同意せざるを得ません。

好転の道を閉ざす恐れも……

人生とは不思議なもので、ポジティブに考えてもそこまで事態が好転しない事も多い一方、ネガティブに捉えているとどんどん悪化していく傾向があります。

というのも、やっぱり人は本質的に綺麗なものを大事にしたい生き物。反対に汚いものは、どうしても軽蔑や嫌悪といったネガティブな感情のはけ口にされやすいものです。

要するに雑に扱われます。ついでに言うと、そういう人間が幸せになるのを快く思いません。

そのため救いの手が伸びることもまずありませんし、むしろ自力でどうにかしようと思っても、大抵どこかで邪魔が入ります。

それでも稀に奇跡ともいえる救いの手が現れることがありますが……「どうせ全部汚い」とその手を取らなければ、ただでさえわずかしかないチャンスを自ら棒に振ることにも繋がってしまうのです。

先ほど人は堕ちる時はとことん落ちると言いましたが、それは性格面の話だけではありません。むしろ環境こそ、ドン底なんて存在しないくらいどこまでも下があります

「先進国の日本ではそんなこと有り得ない!」という人もいるかもしれませんが、例えばそんな日本でホームレスがいるのは何故でしょうか?彼らは救われてはならないゴミのような存在なのでしょうか?自ら選んだのでしょうか?それとも甘えの結果ですか?多分、ほとんどの人がそうではないでしょう。

要するに、他者からの救いの手が無ければ誰でもああなってしまうわけです。そんな状況を自ら作ってしまうのは、さすがにマズいのではないでしょうか?

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無理に善悪を意識する必要はない

さて、ここまで「綺麗な善ばかり見るな」「汚い悪ばかり見るな」という話をしてきましたが……そうは言っても、自分の資質や生きてる環境次第では、どうしてもどっちかに振り切れてしまう物ですよね。

その辺はもう、仕方ありません。その人の生き方ややり方はある。

悪や汚いものを直視すると大ダメージを受ける繊細な人もいますし、逆に綺麗すぎる善なんて信じてたら文字通り殺されかねないくらい劣悪な環境に身を置く人もいることでしょう。

基本方針として綺麗なものを信じる、汚いものを信じる。それは否定できるものではありません。
ただ、あくまで知識として「世の中には信じられないほど綺麗なものも、誰も見たくないくらいひどい悪もある」という事を、あくまで頭の片隅に入れておいてください。

私は悪の側を強く意識して見てしまうタイプですが、それでもあくまで他人事として「いい人もいるし、そういう人に囲まれる環境も存在する」と考えてからは、意外と味方になってくれる人も増えました。

無論、いまだに私のことを欠片ほどの品性も善意もない上に無能で何もできないクズだと考えている人は多いでしょう。実際、みんながそう思っていじめや軽蔑することで成り立っていた組織や交友関係もいくつかあります。

ですが、それが世の中のすべてではないのが人生の面白いところ。

綺麗なものしか見たい人は、違和感を感じたり悪を見ざるを得なくなった時は感情的に否定せず、「そういうものもある」と一旦は受け止めてみてください。

汚いものしか見えない人は、たまには善意を向ける人やそういう環境がどこかにあるのだと思い出すようにしてください。汚い悪だけが、人や世の中のすべてではありません。

世の中は綺麗なものも汚いものもいっぱいある!

結局一方をどれだけ否定しようとも、世の中という大きなくくりで見ると、綺麗なものも汚いものもそこらに無造作に転がっているのです。

小さなくくりで言えば綺麗なものしかない場所も汚いものばかりの場所も存在しますが、極端に小さなコミュニティに死ぬまで引きこもり続けない限り、自分が見たくないものや知りたくないものもいっぱい出てきます。

目を覆いたくなるような汚いものを目の当たりにしてついつい全否定したくなることもあれば、自分とは似ても似つかない綺麗すぎるものを見て虚しさを覚えることもあることでしょう。

ですが、そんな信じられない、信じたくないものであっても、1つの現実であることに変わりはありません。そのことを忘れず、いずれは清濁併せ吞むことができるようにしていきたいものですね。

最後に

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