苦しいだけの努力なんて意味もないし無駄だしアホらしいだけだよ

世の中
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努力って言葉は、人生が上手くいってる人ほど好きな言葉のような気がします。

実際、何かしら大きなことをやり遂げた人の多くは「努力は裏切らない」と力説し、あらゆることを努力しなければ絶対悪であるかのように語る人もチラホラと……

まあね、こっちも努力すればそこそこの事ならどうにかなるかもしれないことはわかるんです。ただ、まあそういう問題だけではないですよね。

ここにたどり着く人の大半は、努力嫌いだと思います。

今回は自分なりの努力論について、努力嫌いの視点で語ってみましょう。しんどいだけの無駄な努力とか、本当意味があるんでしょうか?

そもそも努力って何ですか?

まず、個人的に思うのがこれ。努力ってのは、具体的に何を指し示すんですか?

以前こんな疑問を、とにかく結果が出ない人に対して「お前は努力していない」と賢しらに説教する人にぶつけたことがあります。

で、彼から帰ってきた答えは、「どんなに苦しくても歯を食いしばって耐えること」「嫌なことを率先してやること」とのこと。

いやまあ……典型的日本人が言う努力ってのは実際そういうもんですけどね……。

ただ、個人的には思うところがあるんですよ。それ”だけ”が努力じゃないですよね?

努力という言葉は筆者も嫌いです

「楽しみ無く辛くなければ努力と認めない」風潮は悪

努力という言葉が好きな人は少なくありません。

まあ多くの日本人の努力好きで勤勉な点は実際敬意に値することだと思うのですが……ただ、そういう自分を誇るならまだしも、無暗に努力の定義を狭めるのは自他の首を絞めるだけです。

とにかく努力というものを神妙に捉えてハードルを上げようとする人、結構いるんですよね。曰く、「苦しくなければ努力と言えない」「楽しむことを努力と言えない」。

で、(もし見てるなら)そんな人に質問です。苦しくなければ成長しないんですか?何事も楽しんでしまったら糧にならないんですか?

そりゃ、努力というものが嫌いになりますよと。

実際、世の中「苦痛なぶんだけ強くなれる」「楽しんだぶんだけ弱くなる」みたいに単純なものではありません。

楽しくやろうが今後の糧になることは山ほどあるし、苦痛なだけで何の役にも立たないことだってあるわけで。

要は気楽に構えましょうよという事ですね。「苦しくなければ努力ではない!」なんて厳しいだけで情の無い言葉を信じて辛くなるなら、信じなきゃいい。何を信じて何を疑うかは自由です。何かを頑張ることが嫌になる前に、そういう手合いからは距離を取るべきですね。

「努力は当たり前」という罠

「努力するのは当たり前」、と。この言葉で苦しむ人も、人を苦しめる人もまあ多いですね。

大抵こういう言葉って、言う側は掲示板で芸能人の悪口書き込むくらいの感覚で言うくせに、受け取る側は重く捉えちゃうんですよね。

まあ、まともに考えるとしんどいです。特に努力を「楽無き苦難」「終わりのない忍耐」なんて考えてると、「苦しいのが当たり前なのか」と絶望してしまいますよね。

これ、実は意味が違うものでして……

「ドハマりすれば、上手くなるための試行錯誤なんて努力と思えなくなるよね」

と、おおよそこういう意味です。

はい、苦痛とか関係ないです。むしろ楽しいからこそ発生する努力です。というか、どんだけ忍耐強くても心が壊れるか全力で楽しむかしないと努力なんて続けられません。

ほら、好きなゲームやってたらそのうち上手くなったとか、旅行してたら各地の観光地に詳しくなったとか、そういう事ってありませんか?

まあ「ゲームが金を稼いだり称賛されるのに何の役に立つんだ」と言われると言葉に詰まってしまいますが……ともあれ、ゲームが上達するのも努力の一環です。死ぬほど努力してる人は、あれの延長線上で色々やってます。

そう考えると、「努力」って言葉を神聖視するのもバカバカしくなってきませんか?

努力の定義は厳密なようで曖昧

案外、努力って曖昧なんですよね。結局判断する人の主観、好き嫌いで努力家否かが決まります。

例えば私は手相占いの資格で手相鑑定士というものを取得していますが、これも親族からすると「お遊び」「おままごとを覚えてどうするつもりだ」とか何とか。

まあ、物事ってそういうもんです。人によって評価の方針が違うんだから、血の滲むような努力をしても「片手間でやってる奴の足元にも及ばない」と評価されることだってあります。

この辺、気にするだけしょうがないと思うんですよね。「あの人が認めなかったら努力じゃない」みたいな考え方は危険だし、あの人というのが「自分がかかわってるみんな」であっても、結局は同じことです。

もしかすると、あなたも努力が評価されないだけで、実はとんでもないことを成し遂げてるのかもしれませんよ。

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努力を神聖視すると地獄を見ます

要はそういう事ですね。なにも苦痛にのたうち回る必要もないですし、無理に真正面から苦手を克服することもありません。

むしろ苦痛や苦難を打ち破ることそのものが神聖視されれば、それだけ心身ともにやられますよ。

ましてや、人に言われたから嫌でもやるのは論外。それが飯のタネになってるなら多少の我慢は必要かもしれませんが、それにしても限度はあります。

嫌なことや苦手なことが「成長のため」「自分を大きくしてくれる」というのもまあ間違ってはないんですが……ぶっちゃけ、大半は別のことでカバーできたりもするんですよね。

何も真正面から打ち倒す正攻法だけが攻略法じゃないし、もっと上手い成長の仕方、潜り抜け方もあるかもしれません。

苦手の克服は成果が薄い

死ぬ気で何年も努力すれば、苦手なことも人並みには上手くやれます。「努力すなわち苦痛なり」って考え方は、たぶんこの事実に根差してるんでしょうね。

ただ、考えてみてください。普通の人が数日でできることを、数ヶ月あるいは数年かけてやっとできました~!!……これ、本人の伸びしろはともかく、客観的な立場で見て凄いことなんですか?

残念ながら、人並みになるために磨き上げた数ヶ月があれば、他の人はさらなる高みへたどり着いてしまうでしょう。すると、そこにあなたがたどり着くのは数年後?数十年後?そしてそこまでの年月をかけて追いついたと思った相手は、その時にはどの位置にいる?

……なんだか吐き気がしてきますよね。苦手を努力で克服するって、そういう事です。

個人的にはこういう頑張る人は感心してしまいますが……その結果を評価するかは話が別。頑張る姿がいかに素晴らしくとも、苦手な分野で本人や周りが満足するだけの高みにたどり着くことはほぼ不可能でしょう。

苦手は効率化か得意での代用が手

どこかで聞いたことがあります。「嫌いなことや苦手なことこそ効率化が進む」と。

まあ、何やっても苦手分野は大抵避けて通れません。直接は必要なくても、補助的な要素で必要な場面は出てくるでしょう。

そういう時に真正面から挑むのは最後の手段。まず代用手段か、あるいは最低限の時間や労力でどうにかできる方法を探してみましょう

何かしらお返しを用意して人に手伝ってもらうとかは、その最たる例ですね。得意な人に任せとくのが、何より手っ取り早いです。

まあ日本じゃあまり好かれないやり方ですが……それでも、要は結果を出せばいいわけで。

苦手に真正面から当たるのも時には必要かもしれませんが、壁にぶつかるたびにすることではありません。身が持たないですからね。

努力に展望はあるのかが重要

私がここまで見た中で、努力を続けられる人には2つの共通点がありました。

ひとつは好きで努力とか関係なしにのめり込んでいる人。もうひとつは努力することで何かしら展望が見えている人です。

わかりやすい例が大学受験とかですね。なんだか皆さん当たり前のようにされてますが、あれだってよほど入りたい志望校があるか、あるいは「いける」という確信ありきの努力です。

あんな膨大な量の勉強、希望が無いとできません。よく受験生時代の勉強時間を引き合いに他人に説教する人がいますが……勉強時間なんてのは希望を見出した結果論にすぎません。

真に誇るべきは、そこまでの努力をしようと思える目標を持ったことではないでしょうか?

結局、努力なんてのはどれだけ希望があるかなんですよね。乗り越えたところで旨味が無かったりそもそも乗り越えるのが絶望的だったら、そんなもん続くわけが無いのです。

結局好きでやってる奴には勝てない

私が努力というワードを語って、最後に行きつくのはこれですね。展望があろうがなかろうが、好きなことならガンガンのめり込んでしまうのが人間です。

私もよくゲームはしますが……ゲームなんて上手くなったところで人生の何の役に立つんですか?ほぼ役に立ちませんよね?

人生の効率化だけを考えたら、ゲームなんてやるだけ無駄。それでもついついやりこんで、極めてしまう。

で、これがゲームでなくて極めたら旨味があることだったら……まあ、そういう人は死に物狂いで努力しますよね。常人には勝てないわけです。

結局、多くの人が言う”努力”は、「好きでやってる」って人には勝てない。世の真理です。

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努力そのものよりも「努力できる環境」

結局何を言っても、ここにたどり着いてしまうんですよね。

努力できるのは、才能ではありません。ましてやだれしも当然のようにできるものではありません。ただ、条件がそろえば誰にでも努力はできます。

問題はこの「条件」であって、例えば死んでもいいくらい好きなこととか、あるいは努力が報われる勝算などなど……まあ、なかなか難しいところがあるかもしれません。

が、いざ条件にハマってしまえば、人間誰でも努力はできます

もっとも、それを努力と呼ぶ人が本人含めて何人いるのかはわかりませんがね……そんなもん、そもそも人様に決める権利はないです。

ともあれ、上達や結果のためにあれこれ試行錯誤する行いは、どうあれ努力と言えます。苦痛が伴おうが伴うまいが、何かを成し遂げた自分や何かが上達した自分は、認めて誇っても良いのではないでしょうか?

努力なんてのは、世間で言われるほど堅苦しいものではないはずです。

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