誰でもみんな、悪い人よりはいい人と言われたいですよね? 実際、いい人でいる方が周りからも敵視されませんし、恩恵も多く居心地がよいはずです。
しかし、かといっていつもどこでもいい人でいようとするのは、さすがにかなりキツいもの。我々みんな人間ですから、ちょっとズルしたり自分だけが得したしたくなるのもまた事実ですね。
今回は、そんな「いい人でいること」について、ちょっとばかり持論を述べていきたいと思います。
いい人でいるのは実際しんどい
まず最初に、我々人間ってそこまでいい人ばっかじゃありません。そして、いい人でいることは少なからず苦痛を伴います。
いわゆるいい人は、他の人が受けられるお得な話やうまい話に耳を貸してはいけません。何といっても、周りからいい人と思われるには自分が得しちゃマズいですからね。
本当だったら自分が受けられる恩恵や自分が口出しできるはずの選択も、全部他人に丸投げする。しかも常に困っている人のために常に目を配り、自分のことを後回しにしていろんな人を助ける。それに対する嫌がらせやひがみも全部受け止めて自分は悪くないのに謝罪までして、怒りも悲しみも全部内にしまい込む。
世のため人のためにと体をボロボロにしながら駆け回り、見返りを求めず人々の笑顔だけを報酬に今日も頑張って道徳的、模範的なふるまいを続けていく。
実際、これができる人は素晴らしい人格者だと思いますし、世の人からはまず善人として受け入れられるでしょう。
しかし、これって実際やろうと思えばできることなのでしょうか?
私としては、答えはノーです。疲れます。
そりゃそうでしょ。こんなの天性のお人好しにしかできません
事実、善人でいるのは難しく、世にいるいい人もどこかで限界を迎えて善行をお休みすることがほとんどだと思いますよ。
いい人って本当難しいです。これを抵抗も疲れも感じずやれる人は、まぎれもなく天性の才能です。
いい人は見下される
これはもう人間心理ですが、善人やいい人って褒められたり感謝されることはありますが、普通に見下されたりナメられるも少なくありません。
考えてみてください。いつもニコニコして怒らなそうな人と逆らったら殺されそうなくらい怖い大悪党、どちらかを殴れと言われたらどっちのほうが殴りやすいですか?
実際どうしたいかは別として、純粋に殴りやすいのはニコニコしてる人と答える人が圧倒的多数でしょう。
恐れられる方が愛されるよりもはるかに安全である
マキャベリー君主論ー
これは権力者のふるまいについて唱えられた君主論の引用ですが……一般人にも同じことが言えます。
善人ほど見下しやすく、批判しやすく、馬鹿にしやすく、裏切りやすい相手はそうそういません。これも、いい人でいることが難しくしんどい理由のひとつですね。
なにも悪人である理由はありませんが、むやみにいい人でいようとするのもなかなか苦痛を伴うわけですね。
自分の意見を言わないのは害悪も……
個人的には「いい人」にカテゴライズするのは個人的に複雑なところですが……いい人でいようという一連の行動の中で、「相手が傷つきそうな自分の意見は絶対言わない」というものもありますね。
例えばこういう人たちとか
こういう人たちなんかもその類でしょう。
あと、類型の分野が違うとFe持ちの人とかはそういう人多いでしょうね
実際、自分が思っていることを封印して意見を言わないのは、人との意見の衝突を避けることができますが……長期的に見ると大損に繋がることもしばしばあります。
自分が「このままだと失敗する」「本人が後で痛い目を見る」と思ったときにも「傷つけたくない」という一心で相手の決断を尊重するのは、本当にその人のためになることなのでしょうか?
いい人は無理に「なろう」と思ってなるものではない
と、見出しの題名を打ってみたものの、「それでもいい人になりたい」と強固な姿勢でいい人を目指すのは、実際間違った判断ではないと思いますよ。
が、ここでいう「なろう」というのは、人の評価や顔色が気になるとか、あるいは「常識や道徳の欠如を人に指摘されるのが怖い」など漠然とした理由でいい人を演じようとすることを指します。
さて、実際、上記のように、いい人であろうと模範的なふるまいや人にいい顔をするのは、その場ではそこまで負担は無くても長期的にはかなりしんどくなっていきます。ちりも積もれば……というやつですね。
で、そこまでの無理をして人の機嫌をうかがっていい人でいようとするのは、何故でしょう?
「人に嫌われたくない」
「あの人からは好かれたい」
「悪い奴だと思われたくない」
と、そういう他人本位の言葉が浮かんだのならば、ぜひ一度立ち止まって考えてみてください。いい人になることで、逆に報われない道に足を踏み入れてはいませんか?
あくまでいい人でいるための心がけ4つ!
さて、いろいろ言ってみましたが……やはりいい人でいる方が居心地がよいのも事実。
そこで、無理せずいい人でいられるように心がけるべきことを、私の中で考え付いたものを挙げさせていただきます。参考になりそうなものがあれば、ぜひとも実践してみてください。
自己犠牲は断固NG!
まず第1に、人のために自分の身を削るのは断固NG! 我が身を犠牲にしての善行や人助けは、崩壊の第1歩です。
例えば窓が割れたまま放置されている建物は、他の窓も割られるようなイタズラに遭いやすいと言われています。所謂、割れ窓理論というやつですね。
これは実は、人も一緒です! 傷ついたり疲れているのにケアされない人や自分を大事にしない人、他人からの悪意に対してなすがままの人なんかは、もれなく人からナメられ、ぞんざいに扱われます。
下手に自己犠牲をしていると、そのうち相手からは「たとえ死んでも構わない使い捨ての召使い」のように扱われることも少なくないでしょう。
平等でない環境に、健全な人間関係は育ちません。くれぐれも、自分を第1に置いたうえで人助けを行いましょう。
自分の意見はきちんと言う!
要するに、異論や反対意見がある場合は、しっかりノーと表現しましょうということですね。
例えば相談相手が「歌の知識はないけど歌手を目指す」などと計画性もなしに無茶を言い出した時、あるいは頼みごとをされても疲れていてそれどころではないときなど……。とにかく要件を飲めない時や「これはいかん」と思ったときは、しっかりと自分の意見を口に出すようにしましょう。
八方美人は一見すると人からは嫌われにくくなりますが、驚くほど好かれません。しかも、何か問題があれば一気に信用を失うことにも繋がります。
自分の芯や軸はしっかり持つこと。これは善人として生きる上でかなり重要な条件になります。
どうしても断るのが心苦しい人は、何か代替え案を相手に提案するのもセットで行うと気持ちは軽くなりますよ。
みんなの言う「いい人」=「都合のいい人」と心得る
これも、どうしてもいい人でいるためには大事なことのひとつですね。
世間にとってのいい人ってのは、つまるところ自分たちにとって都合がいい人です。極論、自分たちが座っていてもタダでいい思いをさせてくれるしそのくせ本人は損してて安心して見下せる存在です。
そもそも、いい悪いってその人の価値観やその時の機嫌、印象によってコロコロ変わるものなんですね。
曖昧でよくわからない価値観に身を置いていては、腹黒にボロ雑巾のように使い捨てられるだけ。あくまで自分なりの価値観を持って、自分の目で見て「何がいいことか」を決めていきましょう。
ただし、自分で決めたことに固執しすぎて頑固にならないよう注意が必要です。
時には休んでもいいじゃない
善人も正義の味方もいい人も、時には休息が必要です。
我々は疲れを知らないロボットではありません。時にはちょっといい人をお休みしたり魔が差したりすることもあるでしょう。
いい人でいることは義務ではありません。たまにはいい人の看板を下ろしてもいいではないですか。
当然、それに対して文句を言う輩は少なくはありませんが……そんなもん気にしてても仕方ありません。その多くはその場の感情で言っているだけで、形勢が不利になると意見を覆すことも少なくありません。
まずは自分が無理をせず。いい人でいるのに限らず、何をするにも鉄則です。
いい人でいるのは結構難しい
というわけで、今回はいい人について色々持論を述べさせていただきました。
実際、いい人でいながら自分の自我や自由を保つのは難しいことだと思います。
かといって、いい人に疲れて悪に傾倒して後で後悔するくらいなら、自分なりの軸や自信を大事にすることを前提でやっていくしかないのかなと考えてます。
いい人というのは実に魅力的なものですが、どうかそれに固執して無理だけはしないでくださいね。
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