最近は特に、善が憎まれ悪が結果を出せるような世の中になりつつあります。それによって生きにくくなった人もいれば、大手を振って自分の利益だけを追求できるようになった人もいることでしょう。
しかし、何故善が憎まれるようになったのでしょうか?
今回は、そこのところを私なりの考えでまとめていきたいと思います。
前提として、みんな善人のつもりでいる
早速話していく前に……まずは話すうえでの前提をお話しさせていただきましょう。
まず何より、人という生き物は少しでも善良でありたいと思っているし、自分がそこそこ善良な生き物だと思っています。
何故か?それは社会的にそれが「良い」とされてきたからです。実際一般論では善人は人々から好かれますし、称賛を受けることも多いでしょう。黒いことを言うと、善良であるというステータスを利用して他人に上から目線で説教もできますし、その人の上に立ったと思わせてくれるでしょう。
逆に悪は、教育や一般論においては無条件で憎むべき存在。学校では卑劣な存在と扱われ、世間でも浮気や賄賂は絶対悪として死ぬほど叩かれます。
だからみんな自らが善人であると自負することで、少しでも批評を避け、賛美されるべき人間なんだと自己肯定感を高めようとするわけですね。
基本的に、善人が「偽善」「売名」と叩かれたりいじめられたりするのって、ほぼこの前提ありきのような気がします。
これだけ聞くとなんだか矛盾してそうな気がしますが……その理由については次から述べていこうと思います。
善人が嫌われる理由
はい、お待たせいたしました。では、ここからが本編ですね。なぜ善人を嫌う人が出てくるのか?
それに関して、いくつか理由を上げてみたいと思います。
理由1:自分が相対的にいい人じゃなくなるから
まず、パッと思いつくのはこれですね。「どうせ偽善に違いないから」「清濁併せ持たないと立派な人と言えないから」など、謎の理由を並べ立てて人の善行に憤るパターンのほとんどがこれです。「自分がいい人だと思っている」というの前提がモロに引っかかってくるパターンですね。
そもそも正解は「清濁合わせ”呑む”」ですからね。
もう都合がいいようにあえて間違ってんじゃねーかなと……
こんな記事を検索で見つけたあたり、やはり「実際それで人が助かってる人がいるのに何が気に入らないの?」とか「なんで知らない人のやったことでそんなに怒ってるの?」とか思ってる人が多いのでは?
この手合いは、「自分が善良に見えなくなるのが我慢ならない」というタイプですね。自分がやろうとしなかった、できなかったor嫌々やっていた善行をさも当たり前のようにやられるのが気に入らない、と。要するに「お前のせいで自分の善良をアピールできなくなるからやめろ」といったタイプですね。
例えば誰にも優しいクラスの優等生が「いい子ぶりやがって」といじめられるとか、会社で褒賞を受けた人が嫉妬によって失脚するとか……ああいったのと同じようなものだと思うのがわかりやすいでしょうか。
本人たちの動機が嫉妬か「大していい人ではない」とおもわれる危機感なのかは定かではありませんが……実際、余裕のない人がこのパターンに当てはまるケースは多いような気がします。
衣食住足りて礼節を知る。追い詰められた人間は、時に赤の他人の無関係な善意にも噛みついてしまうのです。
理由2:善人を演じるのに疲れたから
意識して人助けをしたり、善行を働くのはしんどいものです。特に最近は「善行はちょうどよい匙加減で行わなければならない」「見返りを求めてはならない」など、人の善意のハードルがどんどん上がっていってしまっているため、人助けが逆に恨まれる結果になるという場面も多いです。
で、そんな100or0の価値観を善意でやってる人助けに適用されてしまうと、やはり疲れてしまいますよね。
そして人を助けたりいい顔をするのに疲れきってしまった結果、善意を嫌いになってしまうパターンも多く見られます。
こういう人たちはいいことをして散々裏切られてきただけあって、善意への反発心は強く、先ほどの嫉妬・危機感パターン以上に善意に対するハードルを上げてしまいがちです。彼らも元は善人。実体験がこもっているので、言葉も重いですしね。
理由3:善意を必要以上に崇高なものだと思っているから
だいたい理由1に当てはまる人と被るパターンも多い気がしますが……そもそも善意は見返りゼロで自分を犠牲にし、かつすべての人が完璧に救われなければ善意ではないくらいに考えてしまっている人も多いような気がします。
要するに、極論「100%以外はすべて切り捨てで0に等しい」というような考えなわけですね。
実際、相手の事情を考えずありがた迷惑で動く人も多いですが……この手合いの人は善人を完璧で崇高な存在であってほしいと願うあまり、人の善意に対しては明らかにその人のキャパを超えたものを求めがちです。
そして最後には、「その程度のことしかできないなら、お前の善意もたかが知れている」と一笑に付すことも少なくありません。
いずれにしても、言葉を大仰に捉えすぎてしまうと、動くべき時にも動けなくなってしまいますよね。
理由4:偽善者に騙されたから
どうしようもなく困ったときに救いの手を差し伸べられたら、ついつい考えを止めてその手をとってしまいますよね。実際、辛い時には視野が狭まったり思考が止まる人も多いのではないでしょうか?
善人に見える人たちの中には、どうしても優しいふりをして人を騙したり、明らかにおかしいレベルの恩返しを要求する偽善者が紛れ込んでしまいます。
こういう輩の食い物は、とにかく困っている人。対象は親しい人を亡くしてしまった人かもしれませんし、食うに困って自殺まで考えてしまっている人かもしれません。そういった人を救うふりをして搾取したり、救うだけ救って後々時に法外ともいえるお金や謝礼を求める場合もあるのです。
そんなのにつかまって食い物にされてしまった結果、善人や人助けという存在そのものに嫌悪感を示してしまうこともあるかもしれませんね。
彼らもまた、理由2の人々と一緒で善人を憎む結果になってしまうことも少なくありません。
理由5:昔助けてもらったけど満足いく結果にならなかったから
人間不思議なもので、何もかもおしまいになって完全に絶望しきったとき最後に恨むのは、自分を助けてくれた本人であるという話も少なからず聞きますね。
つまるところ、助けを得てもその人が満足できる助力でなければ、「こいつの手助けのせいで逆にダメになった」と人を逆恨みするのは、悲しいかな人間の心理なのです。
というわけで、この手合いの人は助けてくれた恩人であってもついつい彼らを恨んでしまい、そのまま人の善意そのものを嫌いになるケースも少なくないです。
一見理不尽なように見えますし個人的にもどうかとは思いますが……そうやって人を恨まないとやっていけないくらい崖っぷちの人もいますし、仕方ないところもあるのかもしれませんね。
理由6:単に善人を攻撃しやすいから
これはもう動機はいろいろありますが……単純に「敵視して攻撃するなら、リスクの少ない善人ほどやりやすい」というのもあります。
実際、悪人や仕返しに躊躇の無い人を攻撃してしまうのは大変リスキーです。場合によっては殺されるとか、そこまででないにしても莫大なデメリットがあるかもしれません。
が、想像しやすい善人、つまり「なよっとしてお人好しそうで毒気のなさそうな善良な人」ではどうでしょう?
それこそ侮辱しようが全否定しようが殴ろうが、「もしかしたら理由があるのかも」「悪いのは自分かもしれない」などと勝手に思って、何もやり返さないかもしれませんね。
つまり、やりたい放題です。
ストレス発散、自分を正義に見立てるためのデモンストレーション、悪辣な権力者に捧げる迎合の意を込めた手柄等々……いろんな理由で叩きやすいのが善人なのです。
理由7:多くの人の偽善を見抜いてしまったから
こいつは少し特殊で、昔の哲学者とかに多いパターンですね。「多くの人は善良であろうとしている」という現象を真正面から捉え、そういう人たちをまとめて「善人」と称しているパターンですね。
これは善人叩きの鉄板である「善人なおもって往生を遂ぐ」「善人ほど悪い奴はいない」という言葉がまさにそれですね。
ちなみに前者は「善人ですら救われる」という意味で、どちらも善人=自分を善良だと思っている人たちと捉えた言葉です。
実際、そういう目で善人と悪人を見極めるのなら、確かに善人にロクな奴はいませんね。何せ「自分は善良である(だから何かあったときは他の人が悪い)」という意味にもつながりますし。
こういう人たちからすれば「私は善良だ」と言い出した時点である意味その人は善人なので、確かに嫌いになるのも無理はないかなと思います。ちょっと捻くれた見方ではありますがね。
善の廃れる時代
さて、なんだかんだ語ってきましたが……現実としてこういう「善人など論外」というような論調が一定の評価をされ、善より悪をよしとする世の中になりつつあるのは否めません。
実際、自分だけが得することを考えると、善行や全体のための行動ほど無駄なことはありませんからね。
ただ、そうやって悪辣な手段で利己的な目標を果たすことを良しとする世界で果たしてよいのか、とも思ってしまいます。
実際、権謀術数が基本の腹黒で隙を見せれば即ゲームオーバーな世界など、何人が生き残れるやら……
今や功徳も清貧も良しとはされない時代(弱者に上から一方的に押し付ける時代)になりつつありますが、もっと手段や表面ではなく心根の善を良しとする時代になってほしいものです……。
コメント