「足るを知る者は富む」を諦めの意味で使うのは正しいのか?個人的な疑問!

世の中
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老子の一節に「足るを知る者は富む」という言葉があります。現代でも、ちょっとインテリっぽい人たちが使っている言葉の1つかも知れませんね。

意味合いとしては、「満足を知っているものは幸せになる」と。ふむ、確かにその通りですね。

ですが、所かまわずこれを使うのはどうなのか。率直に言いますが、どれほどつらい状況に対してもこの言葉を当て嵌めるのは、正直どうにも好かないです。

「現状に満足しろ」という意味は果たして正しいのか?

現状、日本人が語る「足るを知る」とは、「現状のいい点を見つけ出して満足すること」、さらに(悪い方に)解釈すると、「現状で十分だと思って満足して立ち止まること」となる場合がほとんどです。

率直に言いましょう。私は「足るを知る」という言葉の”ここ”がどうにも好かん

ちょっと極論言いますね。

例えばA君という小学生がいて、その子が周囲からいじめられてて親も先生も「お前なんて知らん」とネグレクト……いやむしろみんなで一緒になって喜んで虐待しているものとしましょう。

そんな地獄の中を生きるA君ですが、彼が突然満面の笑みを浮かべてこんなことを言い出したらどう思いますか?

友達も先生もお父さんもお母さんも、みんな僕を叩いたり悪口を言ったらすっきりした顔をしてる!

僕はみんなの役に立ってるんだ!とっても幸せ!

……包み隠さず率直に言いましょう。気持ち悪いです。

こんな言葉を聞いて「偉いぞA君!」なんて感動するような人も世の中にはいるのかもしれませんが、私はただただ違和感しか感じません。

おそらくA君は誰も助けてくれない現状に壊れるしかなかったのか、あるいは「いじめられるのは幸せなこと」と都合よく教育されてきたのでしょう。

まあA君レベルの地獄は滅多にお目にかかれないにしても、人生どうしても我慢できない事、苦痛でしかない事は存在します。

とにかく物事のいい面に目を向けるのは精神衛生上とてもいいことですが、何も現状が変革の必要がないほど素晴らしいものだと思う必要までは無いです。断じて。

当然、現状が気に入らないからとプラスの面まで存在しないことにするのは問題です。ですが苦しいという本音から目を背けるのが素晴らしいとは、正直とても思えません。

あかつき
あかつき

ある種スピリチュアルバイパスってやつ?

無理矢理なポジティブや強引な満足なんて、いずれ壊れるってことです

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「足るを知る」の先に続く言葉

現状良く知られている意味合いでの「足るを知る」は「無いものねだりをするな」という意味で使われますし、実際その解釈は老子の思想にも近しいものと言えるかもしれません。「外の世界を知るから満足できなくなる」的なことも言ってましたし。

ですが、この言葉には続きがあって、それを知れば「無理矢理にでも現状に満足しろ」とは言えなくなるはず。

知人者智 自知者明
勝人者有力 自勝者強
知足者富、強行者有志
不失其所者久 死而不亡者壽

人を知る者は智、自ら知る者はめいなり。
人に勝つ者は力有り、自ら勝つ者は強し。
足るを知る者は富み、つとめて行なう者は志有り。
その所を失わざる者は久し。死してしかも亡びざる者は寿いのちながし。

他人を知る者は知恵があるが、自分を知る者は真に聡明である。
人に勝つ者には力があるが、自分に勝つ者は本当の意味で強い。
満足を知る者は本当満ち足りており、努力を続ける者には志がある。
本来の自分を失わない事が重要であり、死に囚われずありのままの自分を受け入れる者こそ長生きである。

老子は「満足を知る者は幸せになる」としか言っておらず、「現状に満足することが重要」とは一言も言っていないのがミソですね。

なんなら「つとめて行なう者は志有り」。これは「今に満足してそれ以上を求めない」というフレーズとはほぼほぼ逆のことを言っているようなものです。

何よりも重要なのは、自分の本来の姿を見失わない事

要するに「無い物ねだりや不満点ばかりに目を奪われて、今自分が持っている物や持ち物の使い方を間違えるなよ」ということです。

自分のやりたいこと、成し遂げたいこと。あるいはどう生きたいか、どういった力を持っているか。

ないものだけでもなく自分が持っているものにも目を向ける。自分という存在を総合的に知り、今の自分と理想の自分を両方知ること、そしてそんな自分が選んできた道に満足できるようになることが一番なのではないでしょうか?

知るべきは自分の手札と特性

とはいえ、「現状に満足せよ」という誤用が必ずしも間違ったことを言っているかというと、そうとも言い切れないのが歯痒いところ。

というのも、結局無いものねだりをしていても手に入るものは特にないからです。

例えば「あの人みたいに頭がよくなりたい!」「私もああやって人に褒められたい!」なんて願っても、往々にしてその願いは打ち破られてしまいます。

当然のことですが、人には人にできることがあり、自分には自分にできることがあります。

人にしかできない事を自分ができるようになることもありませんし、自分ができることをすべて同水準以上にできる人がいるわけでもありません。

自分に与えられた手札を「神に等しい」と決めつけて理想化することはもちろん、「ゼロ」と決めつけることも自分を苦しめる結果にしか結びつきません。

自分の適性を無視して無策のまま相手の土俵で競争しても、惨敗は必至。
それよりも自分ならばそこそこ以上やれる分野を探してそれを極めるか、どうしても勝ちたいなら自分なりの攻略法を確立してから勝負しましょう。

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同じことの競争に勝てないなら自分の得意を持て!

競争のほとんどは、同じ目標に向かって同じことをするガチンコ勝負、正攻法でのやり取りです。

ですが、それでは指定されたやり方がたまたま自分に合っている人しか勝ち残れません。

老子は競争そのものに対して否定的ですが……まあ言ってしまえば理想論ですね。組織に属する以上優劣は発生しますし、「競争は何も生まない」とも言っていられないでしょう。

ではどうするのか。自分なりの生き方で勝負。これをおいてありません。

苦手を克服するのは確かに大事なことですが、火急ではありません。負けても影響のない戦いでもないのに、わざわざ敗色濃厚な苦手という土俵に立つのは下策も下策。

それよりも、ここ一番では特に特技を知り、それを活かして戦う事を意識しましょう。

答えは一つではありません。馬鹿正直に競争に付き合っても、得意を活かしてのぼせ上った相手の口に餌を放り込むだけです。

「1つの基準だけが正解にして絶対」という強者の言い分からの自己防衛、そして得意分野での柔軟な勝負。これが、弱者や無能が強者を打ち負かす鉄則です。

自分を知る者こそが「足るを知る」に足る

結局満足を知るにしても満足せずまだまだ上を目指すにしても、まずは自分の力の種類と現状における限界、今自分が切れる手札を理解しない限りはどうにもなりません。

とにかく自分を知り、自分の力を知り、自分の望む物が何かを考える。不幸や不遇からの脱却も、まず自分の手札を知らない限り難しいものになります。

まずは「自分に何ができるのか」から冷静に考え、「そんなもの無い!」と絶望することなく、根気よく探すことから始めましょう。

自分の得意と好きを1つでも見つけることができれば、不遇脱却のための第1歩は達成できたも同然です。

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