甘えという言葉、一時期は結構流行りましたよね。世間において話題になる「甘え」というと、一般的にマイナスイメージばっかだと思います。
気がつけば「あれも甘え」「これも甘え」と、とにかく「甘え」というものを指す定義が無限に増え続け……今やむしろいう側が叩かれるのではと思われるような時期に差し掛かりました。
ですがね、正直思うのですよ。「甘えを捨てるとかぶっちゃけ無理じゃない?」と。
今回は、そんな甘えを捨てるとか克服するとか、そういう話に対して思うところを言っていきたいと思います。
そもそも他人にとっての不都合は全部甘え
まず甘えという言葉に、明確な定義や決まりごとはありません。自分が不都合を感じたり「ずるい」と感じれば、たとえ相手の当然の権利に対しても「甘え」認定が可能です。
正直、これが「甘え」という言葉のマイナスイメージを強め、飽和するまで世間で騒がれ続けた原因なんだと思いますよ。
ほとんどの人は、性格の明るいくらいにかかわらずお調子者な1面がどうしてもあります。定義が定まっていない言葉は、ついつい自分の都合で意味を解釈してしまうのです。
要は虐待を受けた幼児の保護や目が見えない人に対するバリアフリーにすら、「その程度の障害も克服せずに甘えるな!」と一喝すれば反論に対してどうとでも言えてしまう。曖昧な言葉とはそういうものなのです。
結局、自分に都合の悪い他人の利権は、自分がその気になれば全部甘えになってしまうんですよね。
いろんな都合や事情を抱えた人が暮らすのが現代社会。1人が自分の感情も都合もすべて満たそうとすると、その他の大勢が犠牲になる。そういうバランスの中で何とか釣り合いが取れるように成り立っているのです。
そんな世界で不都合や「ズルい」と感じるような出来事が生じるのは当然。その当然に対しても「甘えだ」と一喝する輩もそこそこいるわけですから、そういう要求にすら応じて完全に甘えを断つのはどうやっても不可能です。
逆恨みも嫉妬も見下しも正当化する魔法の言葉
さて、要するに不都合や「ズルい」という感情をまるっと正当化してくれる(ように見える)便利な言葉が「甘え」なわけですが、その程度の汎用性では終わらないのがこの言葉の怖いところ。
実はこの言葉、強者への嫉妬や逆恨みだけでなく、弱者や理解できないものに対する侮蔑や見下しにも使えるのです。
超極端な例を出すと、「幼少期に虐待されて学校に行けなかったからと言って、大卒でないのは本人の甘えの問題」「うつ病は甘え」「仕事が嫌でノイローゼになるのは甘えた奴だけ」などなど……
筆者が生で聞いたことがある言葉をえりすぐってみましたが、世で言われている甘えとやらはまだまだこんなものではないはずです。
「甘えるな!」などと口にする奴は、その多くが相手を見下して排除しようという意思を持っているからそう言える。「ズルい」にしろ張昭の意を込めてるにしろ、こう言ってしまっても過言ではないのではないでしょうか?
無論、本当に頭を抱えたくなるような人に対してこう評するケースはそれなりにありますが……その多くが私情から来る主観での物言いにすぎません。
余裕が無ければついつい言いたくなる言葉……
「大人たるもの聖人たるべし!」なんて言われても、実際は不可能なことも多いでしょう。
結局ズルする奴が勝つ。人を蹴落とした方が評価は上がりやすい。
そんな世界では、心の余裕もなくなります。たとえ本人にそんな気が無くても、卑怯者が得た利権と同じものを得ようとする人がいれば、正当性の有無を問わずムカついてしまうのが人の心です。
余裕がなくなったり絶望を味わえば、それだけ人の心は闇に染まる。そのせいで、普段冷静で寛容な人ですら「甘えるな!」と理不尽にケチをつけたくなる事もあるかもしれません。
ストレスもある程度までならいいのですが、極度に溜まれば人が変わる。どんな人格者でもどうしようもない悪人に堕ちることすらあるわけです。
そんな大して考えずに吐いた浅慮の言葉を気にして落ち込んでしまうのは、実はその人が望む結末ではないかもしれません。
無論、あなたが落ちぶれて喜ぶ悪党が相手ならその願望に乗ってやる義理も無いわけで……結局、「甘えるな」という言葉の多くは受け流そうと意識するのが正解ですね。
要するに言いたいことは、「甘えるな!」なんて叱責は8割不当!改善を意識するかどうかは状況次第だが、まずその言葉を鵜吞みにするな!ってやつですね。
事情も知らん奴からの甘え認定をもらっても苦しいだけですし、その苦しみは成長の糧としても免罪符としても使い物になりません。
甘えが助けになることも少なくない
世間から目の敵にされることもある甘えですが、普通により良い人生を歩むためには、時に必要なものだと思いますよ。
「定義はない」と偉そうに言っといてアレですが……人々が「甘え」と非難するものには、一定の法則があります。
それを1言で言えば、他人を頼ることです。
人は生きてる限り、不満や悩みなんて誰でも抱えてることでしょう。時には人に愚痴を言いたいこともあります。助けを借りなければならない事もあるでしょう。
当然、壮絶な人生を歩んできて人よりもスタートダッシュが遅れてしまってる人などは、抱えてる悩みも苦痛もその辺の人の比ではないはずです。
結局、人を絶望や袋小路から救うのはあくまで人なんです。SOSを出さないと、あなたを助ける力を持つキーマンも助けたいと願う人も、みんな抱えるものに気づかずそのまま去って行ってしまいます。
家族、恋人、友人、同僚、上司、恩師、行きつけの店の店長、なんか電車で突然話しかけてきた見知らぬおばちゃん……まあ、誰でもいいでしょう。
とにかく、人は案外些細なきっかけで救われることもあれば、その些細なきっかけすら得られず潰れていく人もいます。
そのきっかけを握るのは、あくまで他人なんですね。
自分は自力で人間観察を試みて自力で這い上がった。人の技術を盗んで独力だけでのし上がった。そういう人も、大いに結構。
ただし、その過程で誰にも支えられていない成功者なんて、それこそよっぽど強運と才能に恵まれた化け物か、よっぽどあくどい事をしてのし上がった人物か、あるいはその両方くらいのもの。
時に人に甘えるのは、恥でもダメなことでもありません。当然相手にも支えられる限度はありますが、その範疇ならば大いに頼っても誰も文句は言えないはずですよ。
本当に捨てるべきは……
とまあ、個人的には「甘えは捨てるのは無理」と言いましたが……それでも、甘えと一般的に言われるものの中で捨てた方がよさげなものもいくつかあります。
時には他人に甘えることが大事な場面も少なくありません。しかし、あんまりに度を越してやりすぎると人生に悪影響を与えることも少なくないですね。
というわけで、最後に「悪影響の元になりそうな甘え」に関して考えてみましょう。
思考停止は危険の元
「判断基準や行動基準を外部に求める」というのは、やはり甘えがあろうがなかろうが危険ですね。
いわゆる他人軸は、ついつい相手の気持ちや事情を考えて動いてしまう事を言います。言ってしまえば、常に意思決定や行動の動機に他人がいる状態ですね。
これ自体はまあ生き方のひとつ。本人がそれでよければ問題なんてないのですが……ひとつ、大きな問題が生じる時があります。
それが、人に人生の決定権を全部委ねてしまうこと。
「憧れのあの人に追いつきたい」「ライバルであるあの人と切磋琢磨する」。素晴らしいですね。自分さえ潰れなければ、「立派」と言われても問題ない考えだと思います。
しかし、「あの人が言ったから」「これが常識だから」と自分で考える力を放棄し、会社や社会、相手に自分の人生すら決めさせるのはあまりに危ないと私は思いますよ。
善人でも悪人でも、やはり「自分の都合が一番大事」という考えは捨てられません。というか、捨ててしまうことは人生の放棄です。
つまり、人生の決定に代理人を置くという事は、その代理人の都合に従って、自分を捨てて生きるのと同義です。
「なぜ」でなく「どうすれば気に入られるか」「どう求められる条件を達成するか」は社会人になれば嫌でも身につく思考回路ですが、それに吞まれれば、最終的には他人にとって都合のいい道具。自分の幸せからも望みからも遠ざかって行ってしまいます。
解決や改善の手は常に考えないと……
厳しいことかもしれませんが……「苦しい」と口にするばかりでは、残念ながら状況の好転はしません。おんぶに抱っこで世の中を渡っていけるのは、よほど面の皮が厚く、かつ多くの人に支持されてる人だけです。
何度SOSを発信しても、それだけで誰かが幸せになるまで面倒見てくれることはかなーり稀なケースでしょう。
本当に苦しい時の援助はいくらでもあるべきだと思いますが、その時の援助あくまで「補助」。人にいろいろしてもらうだけでなく、自分でもやれる範囲での行動を考えて実行していかなければなりません。
無理なら折れてもいいし、やってみてダメならいくらでも落ち込めばいいでしょう。自分では何もやらずに「満足に助けてくれない周りが悪い」なんてやるよりは、正直よっぽど立派ですね。
やってみてもダメで嘆くことを「甘え」という権利は人にはありませんが、そもそも人任せで自分じゃ何もしないのでは、何のために助けるのかわからなくなってしまいますからね。
いくら泣こうがいくら愚痴ろうが、それこそいくら失敗しようが嘆こうが、心折れてしばらく休もうが、元来非難されるべき甘えの本質はそこにはありません。
「苦しいんだから人が全部助けてくれて当たり前」という精神、そして「時分でも解決してみよう」という考えの放棄。これが見えてしまっては、助けようと思う人もそのうち減っていってしまいますね。
たとえどれだけ無様だろうがみっともなかろうが、自分でもやれることは探してみる姿勢と思いが大事です。その結果なんて2の次です。
「権利を主張する前に義務を果たせ」なんて小うるさい言葉がありますが、案外こういうことを言いたいのかもしれませんね。
甘えそのものは悪くなくね?
というわけで、以上が「甘えって悪くなくね?」という筆者の本音とその他あったら危なそうな甘えに関しての所感でした。
本当ね、疲れたら休めばいいんです。しんどい時や寂しい時に人を頼っても、何も思いつかない時には思い切って遊びまわっても、その1側面だけを見て「甘えだ!」と断言するのは視野が狭いと言ってもよいでしょう。
ただ、それでも、「思考を止めて全部人任せにする」とか、「自分が何もしなくてもいいのが当たり前」という期待を人に押し付けるとか、そういうのはちょっと色々マズいですよね。
ともあれ、筆者の甘えに対する所感はこんなところ。
自分が幸せに生きるためにいろいろ頑張ってみるのは大事なことですが、その過程で甘えを挟んでも、何も悪いところはない。
それを踏まえた上で、ほどよく頑張ってほどよく休み、人にとやかく言われても気にせず自分の人生をデザインしていきたいものですね。
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