「甘えるな」「それを甘えと言うんだ!」「逃げの言い訳だ!」「自分だけが楽したいだけだろ」などなど……特にここ最近は、理解できない(したくない)言葉に対してそうやって一方的に全否定する言葉を投げかける人が目立ちますね。
で、毎回こういう人に対して思うのですが……何が嫌でそんなに人にきつく当たろうとするのでしょうか?
ぶっちゃけ、こういう言葉に意味なんてほとんどないことが多いです。おおよそ、スルーしておけばいいでしょう。
「甘え」という概念の不確定性
そもそもの話、甘えという言葉は決まった形がありません。どうとでも解釈できるし、どうとでも変動します。
それこそ本当に甘えまくって無責任に人を貶めたり責任を押し付ける人への批判にも使えますし、自分が苦しんでる中で1人だけその状況を打破できた人にぶつけてもまあおかしくはないでしょう。
もっと言うと、ただ何となく気に食わない相手を指して「あいつは甘えている」と言っても誰もその事実に対して明確な否定はできませんし、極端な話、顔つきが気に食わない人間に対して「人が何も言わないのに甘えて平然と人間社会で生きようとするとは厚顔無恥甚だしい!」なんてイチャモンをつけても、そのイチャモン自体を論破し無効化することは誰にもできません。
要するに、「甘え」って言葉は非常に便利なんですよね。逃げてるとか言い訳とかも同じです。ほんの少しアレンジを加えただけで、誰にも崩せない無敵の言葉に早変わりします。
所謂、ポジショントークと言うやつですね。批判するなら、相応に理由を述べてもらいたいものですが……まあ、基本的に納得できる理由を聞ける可能性は絶望的でしょうね。
異なる立場を理解できる視座は限られた人の才能
多くの人は自分が得た知識の中でしか物事を解釈できませんし、自分が見てきた世界の中でしか他人を認めることができません。
異なる価値観を標榜する人や少数派の常識外れな価値観、自分が味わったことのない痛みをフラットな目線で眺めることができる人は、本当に限られてます。
つまり大体の人は世界に転がってる様々な視点や感性の違いのほとんどを一瞥すらできないわけなのですが……そういう人はいつかどこかで、本人にとってわけのわからない存在に出くわします。
そういう時になって、その価値観を受容するか、肯定するか、それとも否定するか……この3つの選択肢を迫られるわけですね。
言ってしまえば、「甘え」だの「逃げ」だの「屁理屈」といった言葉は、理解できない価値観をとりあえず飲み込むこともせず、ひたすら否定して見下すことを選んだ人たちが放つ言葉なのです。
当然、それが正解と言えるくらいには受容しがたい価値観も中にはあるわけですが……まあ「自分は甘えてるのかな?」と真に受けてこんな記事をご覧になってるあなたに限っては、ヤバい価値観を有してる可能性は低いかもしれませんね。
「自分こそ正義」は多くの人が縋る精神的支柱
さて、理解できなものを否定するにしても、ただ「間違ってる!」と声高に叫ぶだけでは、なんだか気も晴れないしパンチが少ないですよね。
そこで、否定する人たちはいったいどうやって言葉にパンチを持たせるのか?
言ってしまえば、「何かと理由をつけて見下すことで、『自分は正しくて相手は間違っている』という意見に理屈をつける」ようになります。
人は感情の生き物ですが、ただただ「間違ってる」とだけ唱えていれば正しさが確立されるわけではありません。
「自分の意見こそが正しい」と常に掲げて相手の正当性を絶えずおびやかすことによって、ようやくその手の人は安心できます。
要するに「甘えるな!」とは「自分こそが正しいんだ!」と自他に訴えかけて安心するためのパフォーマンスの一環なんですよね。
得もないのに厳しい言葉で責め立てて相手を追い詰めるタイプの輩は、特に自分の正義に固執します。そうでもしないと自分の精神的安全を保てない不安症なのです。
人が人を「甘えだ」と一蹴するときの3つのパターン
まあそれでも何だかんだ「甘えは甘えだ!それ以外あるか!」なんて人もいますよね。
ぶっちゃけ、理解できないってだけが甘えという言葉を生み出すシチュエーションではないです。
甘えるなという言葉を作り出す要因は、主に3パターン。今度はそれを見ていきましょうか。
1.相手の意見を理解できない
これはさっき言いましたね。
「何を言ってるかわからない」→「そうかこいつは甘えてるんだ!」という超解釈から生まれた悲しい誤解です。
まあ後付けでいくらでも甘えてる理由を聞くことはできますが……まあおおよそ理解できないものを否定する道を選んだ人たちです。
特にこれは、多数派を盾に「常識」とか「当たり前」を持ち出して封殺する人に多いイメージがありますね。
2.ハナから見下してる
残念ながら、群れで生きる生物は、常に差別の対象を用意しなければ心の安寧を保てません。そしてその差別対象は、おそらくよほどの変化が無い限りずっと差別対象のままでしょう。
人も一緒で、差別抜きで生きていけるような立派な聖人君子は一つまみいればいい方です。だからこそ慈愛の類は尊いわけですが……。
このパターンにハマった人が甘えてるとされる理由はもう明白ですね。劣ってる存在の話をいちいち聞く方がアホくさい。
どうせ劣等種だから聞く価値の無い話をしてるでしょうし、仮に素晴らしいことを言っているなら差別の正当性が揺らぐわけで、尚の事都合が悪い。どっちにしろ潰す対象です。
そんな時に便利のいい言葉が、「甘えるな」を筆頭にした不定形な言葉たちですね。
要するに見下してるあなたを出汁に優越感を得ようとしてるわけです。
3.自分の苦労が台無しにされた感
人が他人を見て「甘えるな!」と言いたくなる最後の理由は、言ってしまえば「自分のほうが苦労してるのに」という嫉妬や逆恨みの感情です。
「学校にエアコンとはけしからん!」みたいなことを言ってる所謂老害と言われる人たちや、自称苦労してきた人たちがこのパターンに該当しますね。
このタイプの人たちは、自分の苦労や苦難を美談として語ってきます。おそらく、そうしなければ過去の苦労や苦痛の残滓に耐えられないのでしょう。
残念な話ですが……「自販機で自分が落とした500円」と「目の前の人が有名詐欺師に騙し取られた500万円」では、確実に前者の方が尊くつらい犠牲に思える人がほとんどでしょう。
500円失った自分のほうがはるかに辛い。苦しい。どう考えても失った額が違うのに、そう思ってしまうのが人情と言うやつです。
ですが、明らかに金額の重みが違うのもまた事実。そのまま自分が500円失った痛みを相手にぶつけても、なんか自分が悪者に見えてしまう。
その結果、「どうしても自分のほうが苦しいんだ!」という思いが引っ込まない人たちの口から出るのが、「お前の管理不足だ!甘えるな!」みたいな言葉。
あるいは「アフリカでは多くの子供が餓死してるのにその程度で……」みたいにちょっと変則的な人もいるでしょう。
まあどちらにしても、「自分の方が苦しい」という感情を抑えきれなかった結果の言葉として「甘え」が用いられることも少なくありません。
「甘えるな!」は基本的に一時の感情
人に「甘えてる!」と義憤らしきものをぶつける人は、どうあれ一時の感情で深く考えずに言ってることがほとんどですね。
だいたいは反射的に感情になって相手を否定してるだけで、だいたい次の日にはどーでもよくなってるものです。
もうね、スルーしましょう。誰にだって、虫の居所が悪い日もあります。くだらないことでくだらないキレ方をされたあなたは、残念ながら運が無かったのです。
もっとも、それでも粘着してくる奴はどこまでも「甘えた根性を叩き直す」「お前が野垂れ死ななきゃ世の中間違ってる」などと理屈をつけて追っかけてきますが……そいつは劣等感の塊みたいな惨めな奴ですね。感情的に返さず、法的手段を視野に入れて色々証拠を集めときましょう。
軽蔑も嫉妬も反射的な全否定も、ある意味人間ならば仕方ない部分があるのかもしれません。
もっとも、器の大きさに関してはちょっと肯定しかねますが……とりあえず「虫の居所が悪いんだろうなぁ」くらいに思っとくと、ある程度スルー出来るようになりますよ。
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