「人から反対されるとついムキになっちゃって……」
「存在否定と同じに聞こえてしまって……」
自分と違う意見の人を見ると、ついつい攻撃してしまうこともあると思います。
スタンスが違うのがなんとなく不愉快、許せない。
自分の意見が否定されると、自分の存在が否定されたように感じてしまう。
敵視されているように感じてしまう。
理由は様々ですが、誰しも自分に理解できない価値観や真逆のスタンスの人を見ると、ついつい当たりが強くなってしまうなんて経験、ほとんどの人があるのではないでしょうか?
正直、異なる価値観の人を非難したり不快に思った人を否定してしまうのは簡単ですが……あえて言いましょう。
「自分は違う意見を受け入れられない」と気づいた人は、それだけでかなりマシな部類の人であると。
村社会における同調圧力
昔からよく言われていますが、日本はとにかく村社会。
資源も少なく自然災害も多い土地柄で、人々は有力者を中心に一丸となって社会を築いてきました。
その国民性からか村社会の弊害か、意見交換や議論は大の苦手。
みんなで物資を分け合っている日本では、村八分をくらって村落から孤立するととても生きていけません。なので村の一員でいつづけるため、自分の身を守るためにも、村ごとに定められた掟やルールに絶対服従。
おかしな村の掟に対しても「村を追い出されて野垂れ死ぬよりは……」と黙って従い、異を唱える人は掟への忠誠心を見せるために不穏分子として徹底的に排除。
そういう「村のルール第一主義」な生き方を良くも悪くも貫いてきたので、異論=敵対者という刷り込みを本能レベルでされてきたのかもしれません。
「郷に入れば郷に従え」とも言いますし、とにかく「同調して当然」「1つの正しい意見だけにみんな従う」という前提条件のような価値観が、日本人の中にはどうしてもあるのでしょう。
一番の原因は「ルールを破ると周りにも被害が及んで、数少ない物資も労力も混乱の収拾に無駄遣いしてしまうから」とかそんなとこなんでしょうけどね。
なんでコイツは極端な例を持ち出すかな……
要するに、ルールや常識と違う意見、あるいは自分とまったく違う意見は自分を引っかき回す絶対悪。
まったく違う意見は共存してはいけないし、右なら右、左なら左で統一しなければいけないという思い込みを抱えてしまっているわけです。
その結果、意見は折衷するものでなく戦わせるもの。
自分の潔白と権利のため、そして村八分をくらわないために、「どちらが正しいか」「どちらが価値があるか」を競い、敗者は二度と自分たちを惑わさないように悪党として徹底的に追い詰めるようになってしまったのでしょう。
要するに、日本人にとって違う意見を言う人とは、全部が自分の安全すらおびやかす敵。唯一の拠りどころを自分から奪っていくかもしれない危険な存在。
受け入れないのはある意味当然ですし、その「当然」から一歩脱却するだけでも難しいのです。
未だに多い「お説教おじさん」も……
いつでもどこでも「自分だけが正しい」とばかりに人にお説教してマウントを取る人も多いですが……村社会のルール第一主義に囚われている人たちとして見れば、ちょっと見方が変わってきます。
彼らは自分と違う意見を持つ人を何のためらいもなく「悪だ!」と断言していますが、それもある意味日本社会で生き残るため、正しい人でい続けなければならない「かわいそうな人」に見えてきますね。
村社会においては正しい人、強い人だけが意見を通すことができます。
なにせ1つの正解以外は全部不正解ですからね。自分が主導権を握って「正解」にならなければ、ルールや常識以外の自我や自分の意見を持ってしまった時点で絶対的な悪。排除・差別の対象になってしまいます。
自我も我が身も守るためには、「自分こそが正義、ルールだ!」と声高に叫ぶしかありません。
あるいは自分の中にある正解や常識に対して「自分はあなたに従います」とわざわざ意思表示をしなければ、自分が排除されてしまうと強迫観念に駆られているのかもしれません。
自分が絶対の正義にそっぽを向かれて排除されないためには、自分以上の「悪い奴」を見つけて、告発することでなんとか点数稼ぎをしなければいけません。
そうしなければ「自分が正しいのか/排除や追放を免れることができるのか」がわからず、とても安心できないからです。
……正義もルールも、唱えてる自分ですら何なのかわかってないのにね。
わかんないからこそ自分が正義やルールのお眼鏡にかなっているかわからないし、獲物を献上して点数を稼ぐしかなくなる。もう災害ですね
どちらにしても、「自分が正しくない」「常識がおかしい」という結論を出されることをひどく恐れている人たちです。
自分が間違っていると認めることは、絶対悪として処刑されるのと一緒。それくらい追い詰められているからこそ間違っている意見を見ると存在から否定せずにはいられず、どんどん過激になっていくのです。
当然、そんな余裕のない人たちが自分の器の狭さを省みる事なんてできません。
「やらなきゃ追放される」という思い込みを抱えながら、今日も「自分は正しい」と念仏のように唱え続けるのです。
集団いじめも同じじゃね?
日本人は陰湿な集団いじめがお家芸のようになっていますが……これにしてもお説教おじさんと理屈は一緒です。
ただみんなで群れになっているから表面的には自信がつきやすく、より実力行使や過激なことをやりやすいだけのことです。
結局、やってることは村八分みたいなもんですよね。
「やらなきゃみんなから自分が干される」「自分たちの絶対正義を否定した奴は存在しちゃいけない」みたいな?
……上から目線のお説教の方がまだ可愛くないですかこれ?
結局みんな、自分たちが正しいという絶対的な確証が得られないんですよね。でも正しくないと自分もみんなも干されてしまう。
みんな裏で抱えている不安は一緒です。
だからせめて誰かもわからない、本当にいるのかもわからない絶対者に自分の正しさと忠誠心を証明して不安を紛らわせたい。自分こそが「正義」「ルール」に忠実であると証明して安心を得たい。
そして隙あらば他の悪(いじめに参加しなかった人や反対している人)をさらに告発し、自分の身の安全をさらに確固たるものにしたい。
集団で誰かを攻撃するとするだけ不安が大きくなり、周りの味方も隙あらば自分を悪に仕立て上げようとしているという一種の被害妄想も助長して、それを払拭するためにもっと過激な攻撃を行うようになっていく。
そんな不安の連鎖のような形で過激さを増すのが、集団いじめというものなのではないでしょうか?
気付けただけでも大きい進歩
世の中、自分の性格なんて見直す余裕がない人ばっかりです。
特に「人の意見を受け入れられない」なんて欠点、日本人の性格や事情を知れば知るほど、私ならば「よく気付けたな」と感服してしまうほどです。
筆者も実際どうかなんて知らないくせに寛容なつもりでいますからね。
否、寛容なつもりでいやがりますからね。
……こんな奴ばっかですよ
自分の正しさにちょっとでも疑問を持てばその時点で終了と考えてしまう人は、まだまだ世の中には多いです。
そんな人が「間違っている意見」「邪悪な価値観」と勝手に思っているものの中に、「もしかしたら」を見出してしまっている。これは本当に大きな1歩。
誇張なしに、普通の人ではたどり着くまでに非常に長い時間が必要な大きな声で気づきです。
「自分は人の意見を聞かない」
「違う価値観を間違ったものだと勝手に思ってしまう」
こう思ってしまったのならば、あと必要なのは気持ちの余裕だけです。
とりあえず自分にとって非常識だったり反対の意見が出たら、「ふーん、そういう考えもあるんだね」くらいに雑に受け止めてしまいましょう。
それで一旦意見を持ち帰り、冷静な頭でその意見を深掘りしていけばいいのです。
雑に受け止めてしまえば感情的に否定することもないでしょうし、「自分の方が間違っているかも」という気持ちがあれば、相手の意見の落ち度や相手自身を貶める方法ばかりを考えてしまうこともないはずです。
何にせよ、「自分の意見や常識が全てではない」「自分は違う価値観を否定してしまうところがある」と気付いてしまうのは大きな一歩です。
今はその大きな一歩を踏み出せた自分を褒めて、それでよしとしましょう。
自分を認め、自分のいい点は素直に褒めて、それから「どうする」を考えればいいのです。
急がば回れ。今は自分を責めず、心に余裕を持ちましょう。
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