「みんな敵」「誰も信用しない」という考えが危険な理由

世の中

正直、今の世の中は潰し合い、叩き合いが主流となりつつあります。肩を組んで笑い合ってる仲間や隣人ですら自分の陰口を叩いていても不思議でなく、まあ殺伐としてますね。

正直、「みんな敵だろ!」「誰も信用できない!」となってしまってもしょうがないところはあると思います。

ですが、この考え方で生きていると、壁にぶつかってしまうことも多くなります。

正直、「みんな友達」「人は支え合って生きるものだ」なんて陳腐な説教を垂れ流すつもりはありませんが……それでも、デメリットは非常に大きいものになってしまいます。

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「孤独に生きていく」だけではない

正直に言って、人からの好意や協力なしに生きていくのは、難しいですが「やろうと思えば案外やれる」範疇です。

「人は支え合って生きるものだ。孤独はつらいぞ」と多くの人は言いますが、むしろ「孤独の方が楽!みんなといる方が体力を使う!」というタイプの人もいます。

ぶっちゃけ孤独なんてものは、個人的にはデメリットのうちに入りません。一部の人にとっては、メリットですらあります。

では、「みんなを敵と思って生きる」ことで他にどんなデメリットが生まれるのか?

大別すると、以下の3点が当てはまるのではないでしょうか?

  • 自然と敵を作る
  • いじめの対象となる
  • いざという時に悪人に仕立て上げられる

つまるとろ、「理由もなく殴る相手としては最高と言える存在になってしまう」というわけです。

あかつき
あかつき

まあ根本的にはほとんどの人を信じてませんからね。私も、筆者も、たぶん他の人たちも。

不寛容、不条理、冷酷非情。敵に回しても構わない相手に見せる顔は、大抵冷たいか嗜虐的かのどちらかです

何となくでも「嫌い」は発生してしまう

人が敵視してくる理由の多くが、「嫌い」という感情が理由です。要するに単純明快。「こいつは嫌いだから敵だ」という、理性も知性もない動機から敵視されることも少なくないというわけです。

だって人間だもの。多かれ少なかれ、感情やその場の雰囲気に流されてしまうものです。仕方ない。

雰囲気や見た目すら好き嫌いの判別材料になってしまう以上、みんな誰かしらに嫌われているものです。

ただ街中を歩いているだけでも、もしかすると見知らぬ誰かに嫌われて陰口を叩かれているかもしれません。


さて、ここで話を「みんな敵」に切り替えますが……正直、嫌われるリスクは避けようがありません。みんなどこかで誰かに必ず嫌われています。
「顔つきが嫌」「何となく」みたいなしょーもない理由で簡単に人を嫌うのが人の感情です。

そんな中で、ハナから「お前はどうせ敵なんだ!」という態度を見せてくる奴がいたらどう思うでしょうか?

正直、いい感情はしませんよね。「何だこいつ」と白い目を向けてしまうのは、正直あるあるだと思います。

とはいえ、多くの人は「もういい、知らん」とそっぽを向くだけで終わります。
これなら、まだ「孤立」「孤独」の類いのもの。最初に言った、「難しいがその気になればやっていけなくない」という範疇です。


ですが一定数いるんですよね、「こいつ嫌い!悪い奴だから懲らしめてやる!」と変に躍起になる器の狭い人が。

こういう器の狭い人間が1人や2人なら大したことはありません。「なんか喧嘩をふっかけてくる鬱陶しい奴」程度で終わるでしょう。

ですが無差別に敵を作って、器の狭い人間同士で徒党を組まれてしまうと、かなり大きな問題になってしまうこともあるのです。

みんなで殴れば怖くない

器や視野の狭い人間ほど、よく誰かしらを標的とした連合や徒党を組みます。

やっぱりひとつの目標を共有するのは、一体感が生まれますからね。誰かを共通の敵にして「みんなで一丸になって、正義のために悪者のあいつを倒そう!」なんてキャッチフレーズを掲げるのは、戦争にもよく使われる強力なプロパガンダです。

器や視野の狭い人ほど「自分は正義で相手は悪」という姿勢を崩さないので、似たもの同士で共通の敵を抱えやすいし、自分の正義を誰も疑わなくなるわけです。

要するに、似たもの同士でひとりを囲んで、みんなで仲良く唱えるわけです。「自分たちは被害者!こいつは加害者!だから何をされても自業自得!こいつは悪い奴なんだ!」と。

攻撃行動の心理

心理学的には、攻撃行動は挑発的攻撃、報復的攻撃、制裁的攻撃の3つに分類されるとか。

挑発攻撃は一方的ないじめや物を強奪するといった、完全に加害者と言われてしまうような行動です。

一方で報復的攻撃は文字通り「攻撃されたからやり返す」と言った復讐や報復が分類されます。

制裁的攻撃は「第三者が道徳や善悪の気持ちから誰かを攻撃する」と言ったもの。要するに「誰かのルールやマナーの違反を非難する」とか、今のご時世だと「マスクをしてない相手に詰め寄る」「コロナ警察」と言ったものが当てはまります。

このうち、「嫌いだから敵だ!」という発想に関係するのは、報復攻撃。

実態はどうであれ、徒党を組んで嫌いな相手を追い詰める人の心理は「あいつは悪い奴!自分は被害者!あいつにひどいことをされた!」です。

あかつき
あかつき

理屈なんてありません。事実がどうとか関係ないです。

ああいう人たちにとってのロジックは、「私たちが不快な思いをした!これは許されざる罪なのだ!」これだけです。


そうだね、ヤバいね!

攻撃行動は他者への損害をおよぼすために道徳的には違背行為ともされるが、他方、戦争などで攻撃を受けた側が報復する場合などは肯定的に評価されることもある。復讐攻撃は被害者側の相対的剥奪感を解消し、公平感をもたらすこともあり、近年、米国の刑法学においても「報復的公正」が研究されている。

Wikipedia「攻撃行動」より引用

理屈や事の詳細なんて知ったことではありません。感情論だけを語れば、「復讐は正義であり、いいこと」です。

当然、「みんな敵だ!」と周囲を威嚇しているような人を、周囲の人は助けてくれません。その辺で生きてる人も、所詮は感情と損得の生き物です。
不当に追い詰められる姿を見ても「いい気味だ」と思ってしまうか、擁護するメリットもないのでとりあえず無視します。

下手をすると、制裁的攻撃のつもりで危害を加えてくる人もいるかもしれません。

「みんなやってる」による没個性化

大した理由がなくても、大勢が「あいつは悪い奴だ!」「これは復讐だ!」なんて声高に叫んでいると、その中にまったく関係ない部外者も入り込んでくるものです。

没個性化。つまり「大勢に埋れて目立たない状態」「みんなやってる状態」というのが、事態に拍車をかけてしまいます。

「みんなやってるんだから、ちょっとくらいいじめても言い逃れできるだろう」「ここまで大ごとになってるんだから、きっといじめられる奴が悪いに決まってる」という安直な考え方がどこかで芽生えてくるわけです。

端的に言えば割れ窓理論ですね。

割れ窓理論(われまどりろん、英: Broken Windows Theory)とは、軽微な犯罪も徹底的に取り締まることで、凶悪犯罪を含めた犯罪を抑止できるとする環境犯罪学上の理論。

              ー中略ー

ある郵便受けの近くの壁に落書きがあったり、付近にごみが捨ててあったりした場合、被験者がその郵便受けから5ユーロ札入りの封筒を盗む割合は25%で、郵便受けの周りがきれいだった場合の13%を2倍近く上回った。

Wikipedia「割れ窓理論」より引用
あかつき
あかつき

エスニックジョーク思い出しました。


日本人を沈む船舶から逃すときは、「みんな海に飛び込んでますよ」と言えば飛び込んでくれるってやつです

「みんなやってるから」は万国共通でキラーワードですが、特に日本では影響が大きいとされています。

「どうせ悪い奴なんだろ」と勝手に決めつけた外野がヤジを飛ばしたり石を投げてくることで、一気に問題が大きくなることもあります。

こういう時に、「日頃から態度が悪かった」というのは、不当に悪人扱いするためのいい大義名分になるのです。

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合い言葉「どうせ悪い奴」

これも、割れ窓理論の延長線上の話ですね。

日頃から味方もいない。誰も擁護しない。敵と味方では敵の方が圧倒的に多い。そんな状況にある人は、先入観だけで「悪」とされる事も多いのです。

例えば何かの店でもネットサービスでも動画でも、低評価ばかりが集まるものを好んで利用するでしょうか?

何度も利用しているものや「この人のファンなんです!」と言えるような人が売ってる物なら、どれだけ叩かれても利用してしまいます。ですがそうでもない限り、初見で叩かれまくっているものを利用するのは、正直かなり勇気がいると思います。

「みんな敵」という状況は、「みんなから低評価レビューばかりされている」という状態に近いです。

よく知らなくても、評価が悪い店で「食中毒が発生した」「ぼったくられた」「店員から暴言を吐かれた」と言われると謎の説得力があります。当然それが嘘っぱちの冤罪でも、「やると思った」という周りからの評価は避けられません。

自ら周囲を「敵」認定して遠ざけるのは、「食中毒」「ぼったくり」のような冤罪疑惑をふっかけられても、擁護してくれる人がいない状態です。

それこそ面識のない人から「こいつにいじめられた」「無理やり迫られてえっちぃ行為を強要された」などと訴えられても、「嘘つけ」と一蹴してくれる人はどこにもいません。

もし冤罪が無事に晴れたとしても、「本当にそうかな……」「冤罪をかけられる側にも問題がある」と白い目で見られる事もあるでしょう。人は滅多な理由がない限り、自分の先入観を捨てられないものです。

そしてもし些細なことでも隙が見えれば、それをネタに「やっぱりこいつはそういう奴なんだ!」と炎上することは間違いありません。

あかつき
あかつき

さらっと自分の体験談打ち込んできましたよ、こいつ……!


まあ擁護者がいないってことは、つまりそういうことです

「みんな敵」と周囲を警戒し、嫌って生きるというのは、つまり「集団から何をされてもおかしくない」という状態に身を置くことに等しいです。

そういう孤立した奴を見つけて嬉々として攻撃してくるどうしようもない人間もそこそこいるので、無闇に周りを敵視するのは危険なのです。

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じゃあどうすりゃいいのか

正直、「みんな敵」なんて周囲を警戒している人は、それ相応の経験や事情があるものだと思います。

「信じられる人を見つける」「性善説的な生き方を周囲にアピールする」あたりが不当な攻撃を避ける最適解ですが、まあこんな時世ではそれも難しいでしょう。

あかつき
あかつき

後者に至っては筆者もできてないから人のこと言えないですね。

発信下手すぎなんですよコイツは……

というわけで、個人的にオススメの対抗策は「みんな敵の中に中立・例外を作る」です。

味方も信用できる友も、一旦は必要ありません。そんなものを作るのは、敵の数が目に見えて減った後です。

それよりも今は、1人でも敵を減らしてとにかく攻撃対象にならないことが先決。

味方がいない状態で攻撃対象になるのは、それこそ「あいつがみんなを呪って不幸にしている」という意味不明な発言すら大義名分になりかねない状態です。

平穏無事に日々を送るため、まずは「敵とは言ったが、コイツには具体的に何かされたっけ?」と思えるような人を探してみましょう。

「敵でもないが味方でもない」という相手なら、わざわざ必要以上に警戒する必要はなくなります。自然と態度からもトゲやよそよそしさが消えるはずです。

というか、ぶっちゃけこれで敵が減らないなら、すでに「みんないじめそのものを楽しんでいる」可能性もあります。それならそれで、早めに集団から逃げるべきでしょう。

仮に集団からの離脱を試みる場合でも、次に出会う人々を敵に回さないように「この人は別に敵じゃない」と思うのは大事なことですよ。

あかつき
あかつき

正直言えば、「いじめる側が全面的に悪い」というのが本音なんですがねぇ……


まあ、馬鹿に理屈は通用しません。群れるってのは「考えが単純化される」「ちょっとずつ馬鹿になる」ってことと同義でもあって、まあ、そういうことです

心に余裕が生まれれば……

何だかんだとお話ししましたが、結局「みんな敵だ!」と絶望したり疑念を持ったりしてしまうのは、余裕のなさがかなり大きな要因です。

「みんな敵だ!」「信用すべきじゃない!」と思い立った人の多くは、いじめや家庭不破など、人間関係において悲惨な目に遭った経験があるのではないでしょうか?

「一事が万事」とも言いますし、たまたま自分が置かれた劣悪な環境を「どこを見渡しても死ぬまでそうだ!」と嘆いてしまうのは仕方のないことです。


なので、いきなり「敵は自分で作り出しているんだ!」と言っても無駄でしょう。それこそ、うつ病を患った人に「今すぐ気合で治せ」と言ってるのと似たようなものです。

なので、まずは仲間なんて大きなものを作る必要はありません。とにかく中立、「これっぽっちも信用できないがわざわざ敵視するほどでもない、表面上そこそこの関係」くらいから見つけていきましょう。

「敵ってほどバチバチにやりあう関係でもないよな」と、せめて「お互い無関心の存在」くらいでも見つかれば、少しは緊張を解くことができるはずですよ。

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