嫌いな人を受け入れられないのは悪に非ず!いじめにならない範囲で無視安定!

人間関係いろいろ

人間は群れでの生活が基本。いろんな人が1つの集団に集まって生きるのが一般的である以上、どうしても好きな人も嫌いな人も出てきてしまいますよね。

で、ここで問題になるのが嫌いな人。

学校教育では「みんなで手をつないで笑顔で仲良く」が基本と教わりましたし、世間体の手前「嫌いな相手なんていません!」と答えるのが社会人としての基本ルールのように感じてる人もいるのではないでしょうか?

ですが、ぶっちゃけましょう。基本だろうが何だろうが、土台人間にとって不可能なものは無理です。受け入れられなくても仕方ないです。

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人を嫌うのはある種当然

そもそもの質問です。嫌いな人がいるというのは、そんなにおかしいものなのでしょうか?

世の中、いろんな人がいます。限られたコミュニティ内でもいろんな人といろんな利害関係が絡んでますし、何かの型に嵌まってる人ばかりの環境はよっぽど珍しいものです。

当然大勢の人が自分の都合だの価値観だの正義だのを自前で持ち込んで1つの集合体の中に存在してるわけですから、存在そのものが不都合な人、何となくいけ好かない人、生理的に死んでも受け付けない人がいて当然です。

主観で掲げてる持論ではありますが……人は道徳よりも自分の都合と損得、そして気分を何よりも最優先する生き物です。そういう風に出来ています。

科学的にも、「脳の扁桃体がほぼ反射で、何事も敵味方や好き嫌いを分ける」なんて言われてます。

つまり、嫌いという感情は自分の身やアイデンティティを守ろうとする自然な防御行動です。

自分の経験や直感が嫌でも「こいつ嫌いだ」なんて囁いてしまうわけで……嫌いという感情そのものを悪として忌み嫌うのはそもそも無理のある話なのです。

嫌いな人はただの「嫌い」でいい

「嫌いな人がいるのは当然の事」と述べたところで……じゃあ今度はその人との折り合いのつけ方について考えてみましょう。

私は嫌いになってしまった相手に対しては、ぶっちゃけ「嫌いな人は嫌いでええやん」としか思ってませんね。理屈なんていりません。シンプルに考えましょう。嫌いなものはどんな理由をつけても嫌いです。

嫌いという感情を完全に無視できる人はよほど自我を理性や道徳に売っている人か、あるいはぶっちゃけ脳機能が壊れています。

儒教の祖とされる孔子も、論語の記述の中で偉人の悪口をいくつか言ってます。所詮そういうものです。

どれだけ「悪いことだ」と自分を抑えようとしても、結局嫌いという感情は最後まで払拭できません。それならば下手に意識せず、「嫌い」と端的にシンプルに思うだけで終わらせる方が健全ではありませんか?

「嫌い」への理由付けはご法度

「なぜ嫌いなのか」をしっかりと分析するように言っている自己啓発もありますが……正直、そうやって意識する時点で個人的には良くないように思えますね。

「人を嫌うのはよくない事」と考えているのか、「あいつは自分が嫌うほどに嫌な奴なのだ」と思い込むための根拠を探しているのかは人それぞれですが……大概、結果として相手の事を余計に嫌いになるのが関の山です。

正直に言いましょう。嫌いな人を見て「なぜ嫌いなのか」を分析するのは無意味です。

どれだけ理由を並べても嫌いという感情を消せるわけではありませんし、むしろ「なーんだ、嫌われてるあいつが悪いんじゃん」みたいな変な開き直りの材料にすらなりかねません。

何度も言いますが、嫌いな人間がいるのはしょうがないことです。もはや本能であり、避けようがありません。

嫌いな理由を必死で捜したところで、せいぜい相手の事が余計気に食わなくなるのが関の山。最悪、「やっぱりあいつに問題があるんじゃないか!」と開き直り、嫌いであることを正当化してしまう事もあるかもしれません。

私も昔は嫌いな相手に対して理由を探していましたが、今では深く考えず、「嫌い」「苦手」から掘り下げないようにしています。

嫌いない理由なんて考えたところで、ネガティブなバイアスのかかった見方しかできません。そんなもので相手を悪者にしてしまうよりも、ただの個人的な感情だけで済ませておくのが賢明です。

嫌う側も嫌われる側も「悪い奴」とは限らない

「人を嫌うなんて最低の行いだ」と思うのもダメですが、「嫌われる奴にこそ問題がある」という考えはそれ以上にアウトです。

あくまで嫌うのは自分の勝手。本能的に合わない人間や生理的に嫌いな相手を指して、「あいつはこんなクズなんです!」「あいつこそ嫌われて当然の悪党なんだ!」と喧伝してしまうのは、さすがに何か違いますよね。

嫌いはただの本能的な反応であり、そこに良いも悪いもない。

ただの「嫌い」という感情を正義だの全体主義だのと崇高そうで綺麗な言葉とすげ変える行いは、人としての倫理を脱した行いです。

人間、所詮は損得とその場の気分をまぜこぜにした「都合」で判断してしまう生き物。この都合を完全に自分の判断と切り離すのは完全に道を極めた宗教家や聖人の類くらいでしょう。

我々のような俗人は、せめて自分勝手な都合を人々に極力押し付けないよう、「嫌い」をただの個人的感情で終わらせるように努めましょう。

我慢して近づかれるのはうれしいですか?

道徳的な教えを説く人の中には、「嫌いな人こそ積極的に関わるべき」「嫌いな相手こそ、自分の短所を直すヒントである」と述べる人もいます。

が、私にとってはマジでやめた方がいいです。自分も相手も嫌な思いをする、割と最悪に近い考え方です。

そもそもの話「自分に嫌悪感を持つ人が我慢して話しかけてくるのを見て喜ぶ人がいるのか」という話ですね。

私だったら……まあ嫌ですね。嫌われてる点に関してどうこう思うより以前に、「わざわざ我慢して話すメリットって何?」となってしまいます。

他にも「嫌いな奴に近くにいられるのが嫌」「なんか我慢させてしまって申し訳ない」などなど、人によって反応は様々ですが……少なくとも嫌いな相手本人視点ではあまりいい感情は湧きませんね。

嫌いという感情や苦手意識は、意外と人に伝わります。何なら、無理に話しかけたことで逆に悪印象を抱かれる事もあるかもしれません。

相互理解も確かに大事ですが、それと同時に必要になるのが“棲み分け”です。

どうやったって相容れない相手も、何を見ても好きになれない奴もいるのが世の中です。下手に理解しようとするより、相手の領域を無暗に侵さず尊重することが何より重要です。

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