我が国の失敗アレルギー体質|人生に間違いはつきものです

世の中
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「人生に失敗は許されない」というのは、日本社会に置いて割と当たり前というか、そう思って常に生きている人が大半だと思います。

特にキャリア設計、人道に欠いた行動、人によって言うことが違う当たり前や常識からの逸脱など……こと他人に迷惑が及ぶ話では、「当人の運が悪かっただけ」「そもそも迷惑を被る側がどう考えてもおかしい」というケースであっても例外なく再起が認められないことが多いです。

何故こうなってしまったのか?今回はそこのところを考えてみましょう。

失敗アレルギー。これに尽きる

なんだかんだと言いつつ、私が提示する結論は単純です。

みんな自分にも他人にも非寛容で、些細なことでも許せない気持ちになる。これに尽きます。

みんな失敗が嫌いだから、失敗することを許せないんですよね。だから失敗しないようにみんなお互いを監視し合い、失敗者が出れば2度と日の目を見ないようにと徹底的に叩き、自分は失敗しないように極力何もしない、押し付けられない事に意識を費やす。

失敗は恥ずかしいし極力したくないから、「失敗すれば社会の中で居場所を失う」と自他を追い込み、一切の失敗をしないように自分も他人も厳しく追い込み、血眼になって失敗を探すようになる。

正直に言いましょう。日本社会は重度の失敗アレルギーです。失敗したら死んじゃうようなレベルの、重度のアレルギーを患っています。

アレルギーって、大したことないように見えてかなり怖い病気ですよね。

しょせんは抗体の過剰反応や誤作動、いわば体が勝手に勘違いしているだけの病気です。なのにそれで緊急搬送される人は当たり前のようにいますし、症状の一つであるぜんそくだけを取り上げても年間約3000人が亡くなっています。

失敗アレルギーは体の暴走と違って直接死ぬことはありませんが、失敗のひとつひとつを重く捉え、小さな失敗でも「社会復帰は許されない」と過剰反応してしまう悪影響があります。

失敗アレルギーによる自他への狭量な対応こそ、失敗が許されない原因です。

あかつき
あかつき

とてつもない償いが必要な大きな失敗も中にはありますが、それにしたって「死んだ方がマシな環境で苦しむことが償い」というのは個人的にどうかと思います。

それよりは、もっと迷惑かけた相手に得になるように仕向けた方がよほど償いと言えるんじゃないでしょうか?

他人の失敗は精神安定剤

徹底的に保守に徹しても、結局どこかで失敗はします。人はみんな自分の失敗が露見し、あるいはどこかで蒸し返され、罰せられることを恐れている部分がどこかであるでしょう。

みんなビクビクながら、自分の失敗や後ろめたさを指摘される恐怖と日々闘っています。

そんな中、誰かがちょっと目立つ失敗をやってしまったらどうするのか……それはもう、鬼の形相で叩いて成敗しますよね。

だって、失敗は悪なんです。悪は存在してはいけない。存在してはいけないものを生み出した奴は悪。自分だって悪にならないように頑張っているのに、その横で悪をこの世に生み出した人物を決して許してはいけない。

……と、そう思うのは表向き、いわゆる健在意識の上での話。

実際はみんな、嬉々として相手を再起不能に追いやります。だって、自分以外の誰かが悪であるうちは、自分の中にある失敗やダメなところという悪を誰も見ないから。人を叩いているうちはその人の悪い部分だけに集中して、自分の悪い部分を忘れられるから。

失敗した人を叩いているうちは、自分の失敗を人からも自分自身からも隠してうやむやにすることができます

何より悪者を叩いているうちは正しい存在(悪ではない存在)でいられますからね。

実際、悪意の有無とか事の代償は二の次であることが多いです。目立つ失敗をした。それだけで、誰かを自分以上の悪に仕立て上げる。

これが、失敗アレルギーを患った人の末路です。

自己責任論とかいう加速装置

自己責任論の正否はこの際置いておきましょう。

ですが、日本で自己責任論があれだけ信奉されたこと、さらに言えば「社会のゴミである弱者を救うのは無駄」という価値観を持った人が日本人に多い理由にも、失敗アレルギーは大いに絡んでくると思います。

失敗アレルギーの人からすると、毎日自分の失敗や悪い面が注目されないかビクビクするのが日常です。

自分の失敗が浮き彫りになって自分が悪者にならないためにも、自分以上の悪は多ければ多いに越したことはありません

その悪という存在に弱者……具体的には不幸な人やロクな環境に生まれなかった人、生活保護受給者やホームレスといった社会的に再起が難しい人が組み込まれれば……これほど安心する材料は存在しないでしょうね。

周囲から道徳的に指摘されない範囲であれば、失敗や悪に怯える人はいくらでも他人を倒すべき悪と認定するでしょう。だって、悪が多ければ多いほど自分が悪にされる可能性は薄れますからね。

あかつき
あかつき

まあある意味動物的な本能というか人間らしさではあるんでしょうが……なんか色々認めたくない……

寛容になろうぜ

極端なことを言うと、失敗は生きてるだけでいくらでも発生します。何なら、生きてること自体が失敗である可能性も否定しきれません。

人生なんて、そんなもんです。「絶対失敗しないこと」なんて言い出すと、究極その場で死ぬしかない。

だったら、せめてもっと寛容に、人の失敗を受け入れて和やかに生きていきましょう。

情けは人の為ならず。自分が人の失敗を受け入れて寛容に振る舞えたなら、失敗した本人も気持ちは軽くなります。

で、失敗した人が誰かの失敗で迷惑を被った時に失敗を許したあなたと同じ対応ができたら、また許された人が他人を許し……と、巡り巡って自分の失敗を許されることにもつながるかもしれません。

当然自分が人の失敗を許したからといって必ずしも環境がよくなるとは言い切れませんが、誰かがやらなければいつまで経っても世の中は非寛容なままです。

当然、自分に厳しくなんてする必要もありません。自分が失敗した時も過剰に自分を責めず、まずはゆっくり深呼吸でもして気分を落ち着かせましょう。

自分の失敗も許し、人の失敗も許し、許した上でどう失敗をリカバリーしていくかを考える癖がつけば、人生少しは生きやすくなるのではないでしょうか?

もう一度言いますが、人生に失敗はつきものです。

失敗しないための努力も大事ですが、失敗を当たり前にするものだと認識して、「失敗してもリカバリーできる」という余裕と寛容さ、そして実際にリカバリーするための手段を考える力を身につけるのも大事なことだと思います。

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