被害者に落ち度が無くても同情されるべき存在でも自分で動かなければならないたった1つの理由

世の中
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いじめ、近隣トラブル、嫌がらせ、果ては犯罪行為など……世の中のトラブルの多くは加害者と被害者が存在します。

当然、被害者と加害者では、常にどちらかと言うと加害者が悪いのが道理。

ですが、そうであっても、結局法的な強制力が無くては加害者は動いてくれません。被害者側が自分で動かなければ何も変わらないのが現状ですね。

嫌な話ではありますが……これは加害者側の心情を想像すると当然のことでもあるのです。

「知ったこっちゃない」から悪さをする

「加害者側から改善したり謝罪するのが当然だろ!」と思われた方は、とりあえず一回加害者側の立場になって考えてみてください。

別に向こうの事情を察しろって意味ではありませんよ。大抵の場合は同情する必要などありません。ただ、まともであるかどうかは別として加害者側にも当人なりの道理があるのも事実です。

正直に言いましょう。「何をやってもリスクが無い」と思われたから、そういう扱いを受けました。それが事実です。

極端な話、暴言を浴びせてもぶん殴っても、何なら殺してしまったって罪には問われない。あるいは何とでも釈明できる。そう思われたからこそ、被害者と言う立場に追いやられたわけです。

要するに、加害者側からすれば被害者の心情や今後なんて知ったこっちゃないんですよ。そんなもの考える共感性がほんの欠片でもあれば、あるいは考える必要性を覚えていたら、もっとマシな手段を選んでいます。

で、そんな故意的に被害をもたらした相手に謝罪と改善を求めても、正直無駄だと思いますよ。

人としてどうあるべきかの話でなく、現実的に動いてくれる可能性を考えると、「絶望的」としか言いようがないのです。

おまけに周囲も周囲で、特にならない事には首なんて突っ込みません。あなたがどれだけ損しようが、「知ったこっちゃない」と思えば手なんて貸さないわけです。

というわけで、「あなたがどうなろうと知ったことではないから」。これが、どんな状況でも自分の手で動かなければならない理由ですね。

ムカつく話ですが、どうでもいい相手への償いや手助けを率先して行う人は稀ですよ。

これは「どっちが悪いか」の話ではない

無論、「被害を受ける側が悪い」と言っているわけではありません。被害者意識による思い込みみたいな特殊な事例を除いては、加害者側がほぼ全面的に悪いのは間違いありません。

ですが、「トラブルや事件の再発防止」という観点だけで物を言えば、どっちが悪いかという話は無意味なのが正直なところです。

例えば、詐欺師に対して「被害者の人が困っているからやめろ!」と文句を言ったら、そいつは詐欺から足を洗ってくれますか?
通行人にカツアゲしてるチンピラに「それは悪いことだ!」と説教したら、ただちにやめてくれますか?

悪意を持って人を貶めている人間は、要するにこれらと同種です。言うだけ無駄なのです。

いじめであれ差別であれ嫌がらせであれ……わざとである以上、相手はあえて損害を与えるために行動しているという事を忘れないでください。

いくら相手が全面的に悪くても、自分の被害や気持ちを伝えたところで解決には至りません。むしろ面白がって嫌がらせがエスカレートする恐れもあるでしょう。

世の流れは「自己責任」

どんな被害に対しても、適当に自己責任論をぶちまけておけば論破できる時代になりました。

そんな時代においては、とにかく人に危害を加えて利益を強奪した者勝ちなのが常。加害者がどれだけ叩かれても、被害者に同情する声が集まりにくくなっています。

むしろ心身ともに弱っていて権力もなさそうな被害者こそが、罵声の餌食としてうってつけとも言えますね。力が無いから殴り放題。被害者の肩身はさらに狭く、まともに生活できる場は少なくなりつつあります。

ぶっちゃけ、被害者側はもう周囲の声や世評を頼れない時代なんですよ。だからこそ、世間や周囲の声ではなくちゃんと然るべき機関に相談し、自分の身を守るための行動を心掛けましょう。

安全をタダで確保できる時代は過ぎました。今や自分の身を守るために、たとえ相手が全面的に悪くても行動を迫られる自己防衛の時代です。

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