「今置かれた環境で頑張る」事しか知らなきゃ地獄を見る

世の中

「今の環境こそ自分のいるべき場!一所懸命が人を成長させる」

「どんなに苦しくても根を張り、耐えて、頑張る」

日本人ならば「絶対正しい」と言わないと白い目で見られる……そんな可能性すらある言葉だと思います。

実際、私もそういう「何としても今いる場所に食らいつく」という考え、(賛同できるかはともかく)間違ったことは言っていないと思いますよ。

一時期そんな「一所懸命」を説くような本がかなり売れた時期もあった。2012年には、「置かれた場所で咲きなさい」という本が大きく売れたりもしました。

「今いる場所で死力を尽くせ」という考えは、やはり日本で一定以上は信奉されている考え方だと思います。

ですが、「自分の置かれた環境で頑張る」”だけ”を大事にしていると、それはそれで危険ですね。

どんな功績を上げても決して人から認められずに手柄をすべて横取りされ、何があっても頑なに「無能」と罵られるだけの世界では芽なんて出ません。

否定しかされないブラック企業で外の世界とのつながりを切って仕事だけに打ち込んでも、報われることはまず無いでしょう。

「苦しくても耐える」ことで先に進めることもありますが、逆に報われるための道を自らの手で閉ざしてしまう可能性もある

これは留意しておくべきでしょうね。

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「苦しみを耐える」だけで幸せはやってこない

「置かれた環境で頑張る」ことを良しとしているのって、よく見れば神様を信じている人たちなんですよね。

あえてひねくれた解釈をすれば、「誰も見てなくても神様は見てくださっているから、いつか絶対日の目を見る」、という無根拠な信仰でしょうか。

実際、今では調べればいろんな情報が出てくる社会。幸運の実例は色々と紹介されています。

巷でよく言われる「努力は必ず報われる」とか、その最たる例ですね。

「どれだけ向いていない事をしても、どれだけ苦痛で仕方のない事をしても、それをずっと続けていればいつかは日の目を見ることができる」、と。こう信奉する人は多いです。

ですが、現実はそんなに単純に出来ていないわけで。

努力するにしても、その努力を成果に繋げる才能、成果を認める人、そしてその評価が役に立つ土壌、そしてそれらを手繰り寄せる運。

パッと思いつくだけでも、これだけの要素が全部必要になってきます。

努力を続けても壊滅的に適性が無ければなかなか結果は出ません。そこそこの結果が出た時には、同期はすでに雲の上の存在でしょう。

認められなければ、成果が世に広まることもありません。自己満足ならまだしも、目的が結果ならばそれを承認される過程は無視できないでしょう。

で、「すごいな」「頑張ったな」と仲間内に評価されても、世間で「どうでもいいもの」として放置されていては報われるような結果にはなり得ません。

見知らぬ人の努力なんてどうでもいいから、みんな「で?」で終わらせるのが関の山です。

「どれだけ苦しくても耐える」

「どれほど報われない土壌でも死に物狂いで頑張る」

これだけで必ず報われるような結果が出るなら、人生もっとイージーモードです。

「置かれた場所で咲きなさい」という言葉も、文面そのままで考えると「咲けない場所で咲いてこそ人だろ!」というおかしな根性論じみた考え方になってしまいます。

こういう考えにどっぷりハマってしまうと、努力が報われるかどうかどころか、結果や成長につながるのかどうかさえ運任せになってしまうでしょう。

あかつき
あかつき

……ん?そもそもあの本、そんなこと書いてましたっけ?

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自分の幸せとは何かを考えよう

さて、せっかく槍玉に挙げたんです。「置かれた場所で咲きなさい」の一文を引っ張ってきましょう。

どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。

その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。

「環境がどれだけ腐っていても我慢して、無理をしてでも咲き誇れ」とは一言も書いていない。

ここがミソです。

どうしようもなくダメな時は、無理に足搔くこともない。そ

れよりも、自分が最終的に何を望むのかを考え、「最終目標のために今できること」を探しましょう。

最後に自分の大願という花を咲かせるために、どうしようもない環境下
でもできることをやっていきましょう。

「環境のせいで」「人のせいで」という恨みつらみはごもっともかもしれませんが、「誰のせいでこうなった」と「これから誰がどうするのか」は別問題です。

どれだけ周囲の人々の性格が腐っていたとしても(むしろ腐っているなら余計に)、埋め合わせを周囲に求めるのは無理な話です。

ならば、「今自分がどうするべきか」を考えていくしかない。

著者の方は最初の方で「環境の奴隷」という言葉を使っています。

曰く、「自分の環境に不平不満を持って周囲が変わることを強く願いながら、何もせずただ他人の行動に幸不幸を委ねる人」を指すのだとか。

実際、「人が悪い」「場所が悪い」と嘆いてみたところで、勝手にどうにかなる事は基本的にありません。

環境が嫌ならば、そこから抜け出すために方策を立て実行していく。誰からも嫌われているなら、まずは笑顔で友好的に接してみて味方を探す。

正直、置かれた環境がクソなのはもうしょうがないです。運が悪かったのでしょう。

ですが、クソな環境を嘆いて「周りが何とかするのが筋だ」などと叫んだところで、そんな筋を通すような人はまず存在しません。

結局何をするにも、まず動くのは自分。

どれだけ嫌でも、自分が動かなきゃ始まらないのは避けられない事実です。

あかつき
あかつき

まあ、いい本だと思いますよ。誤解されててかわいそうだとも思います。

でも、神様がなんだとか「越えられない試練は無い」だとか書かれてて、ちょっとモヤモヤしたのは内緒。

私、神様とか好きじゃありませんし

試練も意味が無ければ存在しても仕方がない

さて、話を戻しましょう。

「どんな最低な場所でも逃げない」

「どれだけ環境が悪くても『自分のせいだ』『これも試練だ』と思ってとにかく耐える」

こういう考えは人生を不幸にする一方だし、やはり耐えた先に希望が無いとそもそも頑張ろうなんて思わないものです。

あかつき
あかつき

漠然と「成長」なんて中身の無い餌で無駄な努力や苦労を強いる人の中にロクな人なんていない……

耐えた先に明確に餌が無いと、訓練された家畜でも全力で走りませんよ

今の環境が嫌いならばとにかく耐えるのではなく、いつか抜け出すための準備を整える。
やりたいことがあるのなら、そのために今できることを探していく。

そうやって「いつか願いが成就ように」と思いながら耐える方が、よっぽど気合が入りますよね?

時には、気合を入れて頑張ることが必要なタイミングもあるでしょう。

何となく漠然と楽な道を進むだけでは、大願成就にはたどり着けません。

ですが、ただ先のことも何も考えず、ひたすら心を無にして耐えるだけでは、得られるものもほとんどありません。

大事なのは「耐える」「逃げない」という、ある意味環境主体の考え方ではなく、「こうしたい」「あれをやりたい」という自分主体の決断と行動です。

成長とかストイックにとか苦しくても耐えるとか、そういうのは「こうしたい」の道中で発揮される手段にすぎません。

間違っても、目的であってはならないと思います。

とにもかくにも、第一にあるべきは忍耐でも成長でもなく、自分の幸せです。

ままならないこと、「こんなはずではなかった」と絶望することもあるでしょう。
ですが、それらを受け入れたところで漠然と「ただ耐える」だけでは苦難の道は終わりません。

目の前に苦難があるなら、それを耐えるのではなく、終わらせるための努力をしましょう。

「置かれた環境で頑張る」とは、元来そういうものだと私は思います。

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