善人を気持ち悪いと感じてしまう心理。偽善者と善人を同一視してるせいでは?

世の中
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今回のアイキャッチ画像……このページの一番上の、ニッコリしてる男性の顔をご覧ください。

こんな記事を見ている方の事です。きっと善人面に違和感を覚えてしまうはず。

気持ち悪いですよね?いけ好かないですよね?

正直こう思ってしまうのは善意を信用していない証ですが……正直、今の世の中ならばそれも仕方がない気がします。

今回は、そんな「善を信じない/気味悪がってしまう」という心理の話。

意識してしまうのは善人ではなく偽善者!

「みんな命を大事にすべきだ」「困っている人は助けるのが道理だ」。まあ、一度は聞いたことがある言葉ですよね。

例えば今私が「しんどいから自殺します」と然るべき場所で公然と言えば、誰かしら止める人が出てくるでしょうね。
多分その人は私との面識などなく、こちらがどんな経歴と思いで自殺を決意したかも知ろうともず、ただただ命の尊さと自ら命を絶つことの罪悪をひたすら一方的に語ることでしょう。

まあ、やってる側は気持ちいですよね。「いいことをした!」という達成感に満たされ、スカッとします。

で、あなたはどうですか?おそらく今、「そういうのが嫌いなんだ!!」と強く思った事でしょう。

そう、これは偽善です。私が本当に死にたくてこう言ってるなら、そんな見せかけの言葉なんて無視してさっさと死んでしまうでしょうね。
一方声をかけてる側も同じ。まあ中には「ほっとくと飯がマズくなる!」なんて考えてるマジモンの善人もいるでしょうが、たぶん大半が私の生死に興味なんて無いです。ただ「善行を積んだ」という実績と実感が欲しいだけと言って、まあ間違いではないですね。

私はそんなものを「偽善だ!」と批判することに対して、反論するだけの言葉が思いつきません。実際相手にとって何の助けにもならない、見せかけの行動にすぎません。

まあ徹底非難はやりすぎにしても、少なくとも諸手を挙げての称賛に値する行いではないはずです。

偽善を気にしすぎると善行も叩いてしまう

で、ここからが本題。ここまでの記述に「うんうん」と頷いている人は、極端な偽善の事例を気にしすぎです。

あかつき
あかつき

例外は、「善行は嫌だけど善人のポジションは確保したいなぁ……そうだ、善人を叩いて偽善扱いしてやろう!」なんてアホを考える心のねじけた輩くらいでしょうか

今回はあからさまな偽善の例を掲げてみましたが、それを理由に善を「偽善!」と決めつけてしまっていませんか?実際にそれで助かっている人を差し置いて、「どうせやましい気持ちがある!」とすべて批判していませんか?

偽善を意識しすぎるあまり、善行によって助かっている人の存在を無視あるいは否定しては、この世の人はすべからく善行を果たせません。

人は誰しも「いい人だと思われたい」という願望を少なからず持っているものです。そんな気持ちをわずかでも持っているだけで「邪なものだ!」と過剰に批判していては、善行そのものが廃れてしまいます。

人は神様や超人ではありません。善人にそれだけの完璧を求めてしまえば、人をちょっと助けるだけで偽善の罪を背負ってしまうことになってしまいます。

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善と偽善の区別は難しい

ええ、善と偽善は見るだけでは区別がつきづらいです。だからこそ善に対して潔癖な人が出て、「いい人がいれば相対的に自分が悪者になってしまう」なんて考えてる輩がそれに同調し、「善行は自分の偽善のために社会を乱す悪だ」という意味の分からない価値観が浸透していきます。

で、その状況下で偽善者は善行をやめて一緒になって善人を非難し始め、逆風でも人を思いやれる善人はまるで悪人のように非難され、そんな感じにして善が廃れていくわけですが……まあその辺に関してはまた別の話。

本題は、なぜ「善行は偽善者が行う悪の所業だ」なんて極端な雰囲気が生まれてしまうのかというと、言ってしまえば「善と偽善の区別が難しいから」に他なりません。

ぶっちゃけ、善人も偽善者も言葉上の定義はあっても、実際は「見た人がどう感じるか」以外の基準が無いんですよね。どれほど私心の無い善行でも他人の気に障れば偽善です。逆に腹黒い胸の内を秘めていても、世間が称賛すれば立派な善です。

元来これでは耳ざわりのいいことを言った者勝ちになってしまうのですが……実際にありがたいものよりも見てて心地よくなるものをありがたがってしまうのが人間心理。

結局区別のしようがない以上、目先の損得や表面の雰囲気で善と偽善が区別されてしまうのは仕方ない事なのかもしれません。

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善と偽善の基準を持とう

善と偽善に限らずあらゆることに言えますが……ものごとに明確な基準が無いなら自分で作る。それ以外に、一貫性を持って物事を分別する方法はないです。

結果的に間違っていても構いません。間違いだと思えば直せばいいだけです。

ここで大事なのは、その基準が正しいかどうかとか世間で「良し」と言われるかどうかではなく、あくまで自分なりの基準を持つことそのものです。

自分の中でちゃんとした基準が無ければ、どうしても判断基準はガバガバになってしまいます。もっと言えば、その場の言葉の雰囲気とか自分にとって都合がいいかどうかとか単なる好き嫌いとか、そういう表面的で自分本位な判別しかできなくなってしまいます。

まあ自己利益を追求することしか興味が無いなら、それでもいいでしょう。信念なんて持たずのらりくらりと流されるまま生きたい場合も基準はむしろ邪魔になります。

ですが、人に善だの偽善だのと熱く語るとか知らない人の行いの善悪をジャッジして自分の意見を述べたいのなら、基準もなく感覚や雰囲気だけで語っても薄っぺらな意見しか出ませんよね?

正直に言いましょう。感覚だったり「学校や職場で正しいと言われたから理由もなく信じてる正義道徳」だったり決めた基準は、言われた側には響きません。

善と偽善に関しても然り。基準無く「あれは偽善だ!」と言っても、同調するのは「他人が善人になると自分が目立たなくなる/相対的に悪人みたいになる」と謎の危機感を抱いている連中だけです。

利害損得と関係のない場所で善と偽善を語るのなら、きちんと自分の納得できる基準に照らして判断しましょう。それができれば、あなたはきっと本物の善人と偽善者の違いがわかるようになります。

みんな偽善のほうが好き

「善より偽善を好むのが人だ」と言えば信じられないかもしれませんが……実際、この傾向が強いのは否めません。

というのも、人は忖度やおべっかを使われると、ついついその人の事を善人だと思ってしまうんですよね。

逆に無私の善意なんてのは、往々にしてあまり評価されません。疑われます。

例えば諫言の類は、ビシッと言わなきゃならない事を言ったところで「正論を言うやつは悪人だ!」と過剰反応されて排除されますよね。あるいはお金に困っている人に効率的な稼ぎ方を教えても、「能書きを垂れる暇があるなら金をよこせ」と言われるような場面も少なくないでしょう。

多くの人は、善悪に特別基準を設けません。聞こえと雰囲気で判断します。その結果、「聞こえがよかったり都合のいいことを言う奴は善人で、聞きたくもない諫言をかます奴は偽善者」という価値感覚が生まれてしまいます。

その結果、偽善者こそが人々の称賛を浴びて、善人は悪として排除される……なんて結末を迎える場面も少なくありません。

哲学者が言う「善人」はだいたい偽善者

私の個人的な基準の話で申し訳ありませんが……哲学者が非難している「善人」は、往々にして偽善者の類です

例えば善人嫌いの間でよく使われる、ニーチェの「善人ほど悪い奴はいない」という言葉。

ここに出てくる「善人」なんて、みんな本当に過ごしやすい世の中なんて目指さず、ひたすら自分の評判と強者への迎合します。規則がなぜ作られるかとかどうすればもっと世界がよくなるかを考えず、ひたすら思考を停止して規則に従事し、迎合しない者を村八分し、悪に仕立て上げてマッチポンプ的にそれを倒す普通の連中です。

……世評に振り回されて強者に合わせて善悪基準を入れ替え、そんな都合のいい善に思考停止して従わない奴を排除する人間のどこが善人なんでしょうか?

弱者=善人は、じつに権力に敏感である。
なぜなら、彼(女)は保身だけを求めるから、村八分にされないように細心の注意を払わなければならないからである。
自分は弱いからそう動くしかない。

ニーチェに限らず、善人批判論を唱える人の言う善人ってだいたいこんなノリですね。

あかつき
あかつき

悪人正機と同じ感じですね。

ここで言われる善人は善人というより、自分を善人だと思い込んでる哀れな人です

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善も偽善もとりあえずあってもいいんでね?

偽善者ってのは、基本的に社会や周りの人が打ち立てた善悪に敏感です。何と言っても、それを基準に動くことで、「いい人だ」という評価を得ようとしているにすぎません。

しかし、彼らを全面的に信用してしまっては、耳あたりのいい事しか耳に入らず、結果として誤った方向に進んでも止められる人がいなくなってしまうでしょう。

かといって「どうせみんな偽善だ!」と善も悪も跳ね除けてしまっては、極端な判別しか下せなくなり、潔癖で生きづらくなってしまいます。

……正直に言いますが、世の人の大半は偽善者です。道徳を神のごとく信奉し不信心者に一方的に天誅を下すか、そんな道徳を批判してあわよくば都合のいい世界を作ろうとしている食わせ物です。

なんだかんだ言いますが、私もこういう「偽善者」の中に入ってるかどうかなんて判断つきません。というか知らない。

なので、もうこの際こうしましょう。「役に立てばいいじゃないか」と。

偽善によって提示された道も、使えるのなら使えばよし。万一使えなかった場合にも、提示した人がどういう反応をするかで善人と偽善者がある程度割り出せます。

とりあえず人の成すことに善だ偽善だと熱くならず、一定の基準だけ設けてゆるーく構えとけばいいのではないでしょうか?

それだけで世の中も生きやすくなりますし、いちいち偽善に腹を立てることも少なくなります。

心頭滅却すれば何とやら。冷静でいれば、意外と世界も悪くないものに見えるかもしれませんよ。

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