ありのままの自分を受け入れるのは怖い?わからないことも多いし難しい?

世の中
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「ありのままの自分を受け入れて」とか「自分を理解できない者に幸せはない」とか。まあ、巷ではいろいろ言われていますね。

正直言えば、まあだいたいは正論です。正論なんですが……はっきり言ってあれらは強者の理論です。

というわけで、私なりに考えていければと思います。

ありのままの自分を受け入れるにあたって

さて、ありのままの自分を受け入れるにあたって、まずは問題点を一通り考えていきましょう。

とりあえず私が思いつく限りの問題点は、以下の通り。

  • 「受け入れてくれる人なんていない」と考えてしまう
  • 憧れの自分を投影してしまう
  • そもそもありのままの自分なんてわからない

ザックリしてしまいましたが、だいたいこんな感じでしょうか。

「自分が」受け入れられるかどうかが大事なのに、どうしても他人の目線が気になってしまう。

自分の憧れの姿と本当の自分を完全に一緒くたに考えてしまう。

そもそもありのままの自分なんて言われても、自分がなんなのかよくわかんない。

ありのままの自分を受け入れるに至って、主に障害となってくるのはこの3つなのではないでしょうか。

あかつき
あかつき

何をするにも常識とかルールとか人からどう見られるかとか、そんな壁が重くのしかかる。

そしていつしか気づけば、自分も常識やルールと言った重石を人に乗せて、都合の悪い他人を許さない器の狭い人間になっていたのでした……

あるあるですね!

他人の目線と自分を許すことは違うけど……

「自分が許すかどうかと、他人に許されるかどうかは全く別の話」。はい。正論です。全くもってその通りです。

でも、わかっていても、人の目をついつい気にしてしまう。ありのままの自分に決別して「嫌われるかもしれない自分」よりも「嫌われない自分」優先し、疲れ果て、気づけばまたありのままの自分の出し方を探して……

そんなループを味わっている人も多いのではないでしょうか。

あかつき
あかつき

まあ有り体に言えば自分に自信がない(自分にNGやNoを突きつけられてしょげてる)というのが原因なわけですが……

なんだかんだ、完璧主義の自分を振り切るのは難しいでしょうね

なりたい自分=本当の自分という誤認

とある界隈に触れていると、結構見かけるのがこのタイプ。「自分がこんな人だったらいいなぁという憧れをそのまま投影して、「これこそが本当の自分なんです」と言い聞かせてしまうもの。

端的に言えば本当の自分を知ると幻滅するだろうという思い込みや、憧れの自分でなければならないというある種の最上志向が悪さしてしまっているパターンですね。

まあ当ブログの客層からは概ねかけ離れているでしょうから好き勝手言ってますが……極端な話、自他に対して減点方式を採用している人に多い印象がありますね。

ダメな自分を絶対に受け入れたくない。本当の自分はきっと完璧なはずだ。完璧でなければ生きる資格はないなどなど……そんな張り詰めた思いから「私が考える本当の自分」という理想や虚像を頼るしかなくなり、憧れや理想でしかない「本当の自分」に成り代わろうと努力すればするだけ後戻りできなくなり、唯一完璧と言える理想の自画像への執着を強めていく……そんな感じの人が多い印象です。

あかつき
あかつき

まあ、多いのは「自分には本質を瞬時に見抜くような優れた直感力がある!」「未来と大局を見据えて遠大な計画を練る力がある!」と謳っている人たちですね。明言は避けますけど

そもそも本当の自分と言うけれど……

まあ、そんな「本当の自分」と目を輝かせて宣言できるような憧れの自分があるだけ、もしかしたらまだ幸せかもしれません。

おそらく一番多くの人がぶち当たるであろう問題は、「そもそも本当の自分なんてわからない」「そんなもの存在しない」という、根本からぶち壊しになるような悩みのはずです。

これもまた自己肯定感の低さからくる自己否定や「嫌われる」という思いから自他境界線が曖昧になってしまった結果なのですが……ひとまずその話は置いておきましょう。

ともあれ、自分のことがわからない。本当の自分とか言われても、どれがどれだか……そんな悩みを抱える方も多いはずです。

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そもそもの原因

さて、弱者側の理屈(になってないけど)を並べ立てるのはここまでにして……そもそもの原因について見ていきましょう。

極端な話、どれももとを辿れば原因はだいたい繋がっています。

要するに、ありのままの自分に価値を感じていない」。これに尽きるのではないでしょうか。

「ありのままの自分なんて誰も愛してくれないし、存在価値はない」

「ありのままの自分ではダメだ。本当の自分はもっと立派であるべきだ」

「ありのままの自分を受け入れられないうちに、全部がよくわからなくなってきた」

まあ結局のところ理由はいろいろですが……「ありのままの自分に存在価値がない」という絶対的な答えから、様々な理由に派生しています。

日本人の承認は条件付き

実際、日本では「条件付きの承認」を素晴らしいものとしている背景があります。

「子供を肯定するなんてとんでもない!怒るべき時は怒らないとダメな子に育ってしまう」

共感されたり賛同されることが非常に多い言葉です。おそらく私もTwitterでこういうことを言っていれば着実にファンが増えるであろう、誰にもわかりやすい言葉ですね。

あかつき
あかつき

つまんねー自虐はいいからさっさと本題書いてくださいよ

ですが、こういう条件付きの承認や愛情を向けられることにより、飾り気のない素の自分を愛するという文化が育たなかったのもまた事実です。

ルールや常識から逸脱した自分に存在価値がないように、周囲のために自分を犠牲にしない自分に存在価値がない。

人に認められる「いい子」の自分以外は、なんの価値もない悪い奴。

そんな価値観が幼少期から自然と培われていき、結果として「社会のためにいい子でいない奴は、存在してはならない」という絶対的な善悪観が固められていったわけですね。

結果として生み出されるのは自分の弱さ

まあ社会のルールに従うことを良しとすること自体は絶対悪ではないんですが……問題なのは「社会の枠から外れた奴には、どんな理由があっても存在価値はない」という厳格さの方ですね。

それによって生み出されるのは、社会の価値観や周囲の感情に右往左往する弱く脆い自分。

精神学的な言葉を用いれば、自他境界線の曖昧さですね。

自他境界線とは

自分と他人を分ける境界線、垣根。バウンダリーとも。曖昧であればあるほど自分と他人の区別がつかなくなり、都合の悪い他人を非難したり、逆に人にとって都合の良い自分になろうとしてしまう。

極端な話、「人に嫌われること」は「絶対にしてはならないこと」ではありません。例えば忙しさを理由に頼みを断ったくらいで嫌われるような人間関係は、本来重視されるべきではありません。

ですが、条件付きの愛情を向けられて育った子供や都合の悪い部分を全否定されて育った人は、ついつい「絶対に人に嫌われてはならない」と強迫観念に駆られ、自ら都合の良い人になろうとしてしまいます。

この繰り返すの結果が「ありのままの自分は嫌われる」という思い込みにも似た焦燥感だったり、長年封印してきた等身大の自分を見失ったがゆえの「憧れの自分への投影」だったり「自己理解への拒絶」なのではないでしょうか。

例えば、日本人には以下のような人が多いとされていますね。

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自分を理解し愛せれば……

まずは寝言というか理想論から固めさせてください。

できることなら、自分のことを理解し、ダメな自分もできない自分も自他境界線が曖昧な自分もまとめて肯定し、「どれだけダメな自分でも、自分のことが好きだ!」というのが一番です。

以下、可能な限りで構いません。ちょっと心掛けるだけでも多少気持ちは違ってくるでしょう。

どれだけ汚くて卑小な自分(例えSNSで一方的に誰かを断罪したり他人を一方的にいじめてスッキリしているような自分でも)を見つけても、「そんなのではダメだ!」「こんな奴が愛されるはずがない」と全否定するのを一旦やめてください。

当然社会的にはアウトな自分であっても、すぐに全否定して正そうとすれば堂々巡りです。

まずはそんな自分がいることを認めて、受け入れましょう。そしてできれば、「なぜこんなことをしたのか」「どうしたかったのか」「周囲にどうしてほしかったのか」と優しく訊いてみてください。

おそらく身勝手な答えやしょーもない動機が返ってくることが多いです。ですが、それも否定せずしっかりと聞き入れてください。

その上で、できるだけ誰かを傷つけずに自分のつまらない望みやわがままを聞き入れる方法を模索していってください

あかつき
あかつき

どんだけ選ぶったり良い子ぶっても、人間しょーもない生き物ですよ。

誰かをいじめるのは気分が晴れるし、つまらない欲求のために悪意的な行動を引き起こします。


高潔ぶってそこを認めない人は、まず朝日を見て感動することはないし清々しい気持ちで日々を過ごすことはありません。だってその高潔な自分がそもそも被り物……

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まあいきなりは無理なので……

まあ、あれは理想論。いわば最後に目指すべき境地です。いきなりやろうとしても「こんな悪辣なことをするのは自分じゃない!」とか「本当の自分はもっと善良なはずだ!」と現実逃避してしまうのが関の山です。

なので、ひとまずは自分の存在を反射で否定してしまっても自己嫌悪に陥ってしまっても仕方ありません。

ただ心に余裕がある時にでも、静かに瞑想でもしながら、自分がやってきたことについて思い返していただきたいのです。

当然、最初は「こんなのは自分じゃない!」と逃げてしまっても構いません。まずは自分の思わぬ姿を発見することが重要です。

そして忘れないでいただきたいのは、世間体を気にして善悪を気にかける自分も、また素の自分の一つであるという点です。

つまり、何か見たくないような行動をしているのも自分。そんな自分から目を背けるほどに悪を嫌う自分も自分です。

肝心なのは、その時に感じたことや思ったことが、ありのままの自分に通じていると知ることです。

結局「ありのままの自分」なんて大層なものでもないです

究極、こういうことです。

結論から言えば、「こうなりたい」も「嫌われたくない」も自分自身。ありのままの自分なんてご大層な名目を掲げては見ましたが、そんなものは結局その時その時に感じた生の感情や思いでしかありません。

ですが、自分の生の感情を知れば付き合い方がわかってきて、改めてなりたい自分を目指すにあたってのヒントになるのもまた事実。

非常に難しいことではありますが……極力、自分の素の感情を無視し、否定し、ありのままの自分を見失わないようにしていきたいですね。

ある意味、本当の自分を目指す言葉?

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