スピリチュアルバイパス:ポジティブ・愚痴言わない・常に笑顔みたいなアレ

世の中
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はい、文字通りですね。今回はスピリチュアルバイパスというやつについて。

何かと「ポジティブは善、ネガティブは悪」とか「引き寄せの法則」とか「愚痴や文句はダメ絶対」とか「いつも笑顔で過ごしましょう」とか、なんだか立派そうなお題目がありますよね。

こういうのに疑問を持つ人は多いですが、決まって「本当のいい人とは」とか「目指すべき人は」とか高潔そうな言葉を並べ立てられて話を平行線に持っていかれることが多い、あの言葉です。

まあ時には「高潔に生きなければならない」と洗脳されかけるような宗教味あふれるこれらの言葉ですが……ちょうどこの言葉を一括りにできる概念というか言葉があるのでご紹介。

それが、「スピリチュアルバイパス」というやつです。

スピリチュアルバイパスとは

スピリチュアルバイパス

未解決の感情的問題、心理的傷、未完成の発達課題への直面を回避したり、横取りするためにスピリチュアルな考えや実践を用いる傾向。心理療法家ジョン・ウェルウッドによる造語。

端的にいいましょう。自分のネガティブな本音やどうすべきかという実質的な課題を強引に無視して蓋をするための、スピリチュアル的な間に合わせの現実逃避です。

波動とか引き寄せの法則とか名前を変えて様々な綺麗事が存在しますが、あれらは要するに「スピリチュアルバイパス」なんて造語を使って揶揄されるようなものですよと……悪意的に書くならそういうことです。

日本でも「ふわスピ」とか言って揶揄されていますね。

あかつき
あかつき

思うんですけど、あれってお花畑の押し付けですよね。結局何も解決してない、ただただ不満も悲しみも苦しみも全部を無理やり押さえつけて「ミラクルハッピー!」と唱えてるだけですよ

スピリチュアルバイパスの弊害とは

実際、「なんだか聖人になれた気がする」とか「周囲が気持ちよくなる」とか利点はあるんですよ。でも前者は思い込みに過ぎずいずれ限界を迎えてガタがきますし、後者はそれこそ他者の都合。都合の悪い存在を許せない、自他境界線が曖昧な人の主張です。

元来人生とは自分の幸せのためにあるものであるべきですが、このスピリチュアルバイパスは、厄介なことに自分を結果的に不幸に押し留めようとする物とも言えます。

ネガティブ感情を吐き出す場所は?

スピリチュアルバイパスが通用する理念において、世界とはあたり一面のお花畑です。そんなお花畑に、ネガティブな感情はあってはいけません。

というわけで、ネガティブ感情は存在から徹底的に否定されるべきもの。仮に不満や絶望を覚えたとしても、無理をして強引に「幸せ!」と感じなければ人としてアウト。ポジティブにあらずんば人にあらず。


とまあそんな感じでネガティブな本音や苦しい思いを「存在してはいけない」からと「存在しないもの」扱いして徹底排除するのがスピリチュアルバイパスの基本。ですが徹底排除したところで、根底に渦巻いているネガティブな感情は本当に無くなるのでしょうか。

私は、Noだと思います。

結局いくら蓋をして外面上はすっきりしたところで、心の中のモヤモヤは残り続けます水面下に不満や苦痛が溜まっていき、それでも気づかないフリ、無いフリを続け、ある時しょーもないことで限界を迎えて爆発……私も何度か見てきた、ありふれた精神論の末路です。

あかつき
あかつき

ついでに付け足せば、爆発して精神を病んだ結果「ネガティブが爆発するような愚か者と関わる理由はない」とかなんとかと一方的に信じてたものに縁を切られるのもよくある話ですね。

なんつー世界だ……

選民思想に取り憑かれた人々

個人的に好きではない価値観なのではっきり言いましょう。スピリチュアルバイパスは、選民思想と隣り合わせの考え方です。

もはや笑えるくらいに絶望的な出来事やボディブローのようにじわじわと精神を蝕まれるような出来事によって脱落者を大勢出すでしょう。結局、ネガティブな心に打ち勝てる(というか感じずに済む)人なんてのはごく一握り。相当恵まれているか、相当鈍いメンタルの持ち主くらいです。

みんなで自分を高め合うと言えば響きはいいですが……結局やっていることは自分たちのポジティブ具合を確認しあいながらの相互監視です。

脱落者を出し、その人と縁を切り、「自分はあいつと違う」と優越感に浸る。その繰り返しです。そして最後には他人を散々切り捨ててきた自分自身が「あなたとは違う」と冷たく言い捨てられる未来にあるのも、この場で明言しておきましょう。

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よく聞くスピリチュアルバイパスの発生源

波動

至極わかりやすい例だと思います。波動を高める方法とか、波動が高い人とか低い人とか……。

まあ人間的なレベルを波動というスピリチュアルに当て嵌めて人間性を磨くという手法はある種画期的とも言えるかもしれませんが……「波動が低い人に起こること」を見ると、強烈なスピリチュアルバイパスのもと形成されていると言っても差し支えありません。

最終的に前を向くことや今あるものに目を向けるのは必要ですが、自分が苦しみを覚えた瞬間、ネガティブな重いから目を背けてやることではありませんね。

波動という概念ばかりに意識を奪われて「すぐにでも波動を高めるために何があってもポジティブシンキング!」とか「嘆き苦しむのは波動が低い人。だから前だけを向いて生きる!」とかやって、自分の本当の気持ちを無視してはやがてどこかでしわ寄せがきます。

引き寄せの法則

要するに「ポジティブに考えればポジティブなことが起こり、ネガティブに考えればネガティブなことが起こる」「願えば叶う」というやつですね。

あかつき
あかつき

洗脳にはもってこいの考え方ですね!

まあ実際に引き寄せの法則が洗脳の類かどうかはこの際どうでもいいです。

確かにポジティブかネガティブかで物の見え方も変わりますし、心の底から願った時に生じる行動力や熱量は本物です。ですが問題は、引き寄せの法則をあまりに過信してそればかり考えるようになった時のこと。

結局のところ、ネガティブに蓋をするだけでは真にポジティブとは言えません。どこかで自分を抑圧しているわけですから。

いくら引き寄せの法則がすごくても、そのために自分の本音を封殺したのでは逆に苦しくなる一方です。

パーソナリティ類型論

派生系であるエニアグラムとか16タイプとかについて色々講釈垂れ流しといてアレですが……これらを総称して言われる類型論もまた、スピリチュアルバイパスとの繋がりを避けては語れない分野と言えます。

人間とは主観の生き物で、やはりどうしても憧れの人物像がありますし、嫌いな性格タイプも出てきます。

具体的な例を出せば心理機能Niは素晴らしくて、Siはゴミ機能とか、エニアグラムのタイプ6はゴミタイプ……みたいなやつですね。

まあ、憧れや好き嫌いも含めて自分自身ではありますが……憧れのあのタイプを「自分にもその素養があるはずだ」として何としても名乗ろうとしたり、あるタイプを「自分が嫌いだから」と言う理由だけで自分のタイプだと頑なに認めなかったりすれば、それはそれで害悪になりえます。

あかつき
あかつき

自分のことを知りたくて学んだことが、逆に自分の目を曇らせて特定タイプであることに固執するわけですね。ミイラ取りが何とやら……

自分を特定タイプだと名乗り、当て嵌め、性格をそのタイプに寄せ、何なら公式で行われているセッションでもゴリ押してお墨付きをもらい、さらに憧れのタイプへの思いを強める……

まあどのタイプを名乗っても別段構わないのですが、名乗ることに命をかけすぎれば自分の性格を歪めて、本来の自分の本領や本質を見失い、本当の自分の気持ちや課題を置き去りにすることも多々あります。

いい人でいるべき思考

聖人バイパスというやつですね。「人を悪く言うものではない」「滅私奉公」みたいな言葉がわかりやすいでしょうか。

極端な話、「いい人でいなければ価値がない」とか「自分ことを優先するのはいかなる理由があっても」と考えてしまえば、それはスピリチュアルバイパスになり得ます。

結局何をやっても嫌ってくる人は嫌ってくるし好きでいてくれる人には好かれるものですが……「嫌われる」という部分にフォーカスしすぎてついつい自分に圧力をかけてしまうわけですね。

結果として「ネガティブな本音は嫌われるからNG」「人の都合を優先するのは当たり前」という価値観に雁字搦めにされることもしばしば……。

苦しみに理由を見出す

「前世では悪い奴だったから自分は今苦しいんだ」とか「これは試練なんだ!だから弱音を吐いちゃダメだ!立ち向かえ!」とか……。こういう考え方も、多くの人が一度は傾倒したことがあるのではないでしょうか。

他にも変わり種だとスターシードとか、エンパス、ギフト……他にも色々と理由付けに使われる言葉はありますね。

これらの言葉は、一瞬自分の気持ちを軽くしてくれます。「ああ、そうだったのか」とちょっと嬉しくもなるでしょう。

ですがこれも一時のものでしかなく、あまりに多用すると今度はカルマや試練を与える神様といった苦しみを与える理由を憎むようになり、結果としてまた苦しくなっての堂々巡りになってしまいます……

占い

占い師が言っちゃおしまいな気がしますが……占いも信じすぎるとそれはそれで危険です。

占いというのは、ある程度人生や今後の方向性を決める手助けをするためにあるだけです。まかり間違ってもそれ以上……それこそ人生の全てを占い師のアドバイスのままに生きるとか、占い師の言われるがままの人生設計をするべきではないです。

ぶっちゃけ、いくら占いをやっていても人の人生を都合よくねじ曲げる自由はありませんし、人の人生の責任を肩代わりできません。

自己責任なんて言葉は基本的に嫌いですが、自分の人生を決めるのは自分です。占いは人生の主役ではありませんので、そのことをお忘れなく……

正義や常識

正義の鉄槌で人を殴るのは楽しいです。誰が何と言おうと、ほとんどの人はその快楽からは逃れられません。

あかつき
あかつき

こういうことを言うと、「それはお前の心が邪悪だからだ!」とか言って正義の鉄槌で殴ってくる人多数……

こういう言い方をするうちはみんな「自分だけは違う」と思うものだったり?

ですがこれも、結果として自分を苦しめる要因になります。

「自分は絶対に悪ではダメだ」

「自分は正しい人間だから、正しい行動をするべきだ」

と。正義の鉄槌で人を殴ることによるツケは、自らを高潔さで縛る「べき」思考として返ってきます。

常識にしても同じ意味ですね。常識や正義から外れた行いは、基本的に忌み嫌われます。だって自分もそういうのは嫌いで、悪人を攻撃するのに躊躇がないから。

みんなで監視しあい、少しでも常識や正義の範疇から外れた人間がいれば叩く。叩く側は気持ちいいですが、同時に自分が叩かれる危険性も孕んでいます。

大概向こうにも向こうの言い分がありますし、ある程度寛容な方が生きやすいです……。

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スピリチュアルバイパスから離れるには

スピリチュアルバイパスから離れるには、自分の今感じたことや生の思いを大事にすることです。まあ、これがなかなか難しいんですけどね……。

ともあれ、「難しくてもやれ」で終わっては世話がありません。私なりに、ちょっと考えをまとめてみましたので参考程度に。

ネガティブでもいいじゃない

究極、そういうことですね。

ネガティブだろうが苦しい思いをしていようが、それを理由に存在価値が否定されるなんてことはあっていいはずがありません。

いっそ自分の苦しみもネガティブな思いも認めて、その上で「じゃあどうしたい」まで考えられるようになれば、もはやそれをネガティブと呼ぶ人はほとんどいないでしょう。

苦しいのも自分。ウジウジしているのも自分。クズなのも自分。そしてそこに何かしらのメッセージを潜ませているのも自分です。

まあいきなり信じようとしても難しいですが……とりあえず今自分が感じている思いを受け止めて、その上で「どうしたいか」を考えるところから始めてみませんか?

「なぜ」「どうしたいか」が大事

なかなかの難題かもしれませんが……一番肝心なのは「つらい」「苦しい」よりも「なぜそう思うか」「そう思わないためにはどうしたいか」です。なぜなら、それこそが本音にもっとも近いところだからです。

例えば何となく人のことが嫌いだ、苦手だと思えば大概は「その人から離れたい」という願いが含まれています。

何かをやっていて辛いとか苦しいと思えば、「やめたい」とか「休みたい」という本音が隠れているはずです。

もっとも、このようにわかりやすいものばかりではありませんが……とりあえずその願いが叶うか叶わないかは置いておいて、掘り起こしてみることで、自分が人生においてどうしたいかの一端が見えてくるはずです。

できるなら自分の願いを叶えてみよう

まあ極端な話「嫌いなあいつを殺したい」とか「奴を破滅に追い込みたい」のようにどうやってもアウトな本音もありますが……叶えられる限りは自分の本音からの願いを叶えてみるのも悪くないはずです。

例えばちょっと休みたいとか、嫌いな人と距離を置きたいとか、いっそ豪遊したいとか……意外と「周囲がどう思うか」とか「遊んでいる暇はないんだ」とかいろいろな理由から、叶うはずの願いを手放しているケースも多いです。

品性を疑われるかもしれないことを言いますが……常識も正義も自分を縛ってくるばかりで、ロクな恩恵を落としていきません。

時々でいいので、一度体裁や外圧を取り除いた、等身大の自分の本音を抽出することも必要です。

時には1人の時間も大事?

自分の本音を心の奥から引っ張り出すにあたって、時には人から離れて自分だけの時間を持つのも必要かもしれません。

瞑想、土いじり、ダンスや何かの創作活動……人によってマチマチですが、自分と一対一で向き合ってみて見えてくるものもあります。

あるいは、人目があると常識やルール、正義といったものが邪魔して出せない自分があるかもしれません。

時には目を背けたくなるような醜悪な自分が見つかることもあるかもしれませんが……できればそんな自分も一旦受け入れて、どうしたいか問いかけてみてください。

ちょっと愚痴ったり弱みを見せただけで離れる人は……

正直、ちょっとネガティブな面を見せただけで失望して離れていく人はそれまでの縁だと思います。

結局そういう人たちはこちらのことを理想化してきては、勝手に理想像を押し付けておいて「違う」と文句言って去っていくようなものですね。

まあ難しいからこのようなブログにたどり着いてしまったのだとは察しますが……できる限り気にしないが吉です。所詮合わなかっただけ、もっと言えばあなたの魅力に気づかない愚か者とでも重っとけばいいでしょう。

それよりも、愚痴や弱みを見せても平気でついてきてくれる人の方を大事にしましょう。

あかつき
あかつき

もし一回の愚痴で人間関係が壊滅したら、それは環境が悪いと言えるでしょう。

なんだかんだ、本当に興味がある人は弱点や弱みも好きになれるものです。

つまり、離れる人、あなたに興味ない

とりあえず、等身大の自分を大事にしていいと思う

思うというか、もはや大前提と言えるかもしれません(こういう言い方は人を追い詰めるかもですが)。

結局スピリチュアルも人間的成長も自己理解も全部、等身大の自分から派生して存在する概念です。

何が言いたいかというと、等身大の自分を無視したり否定した上で自己成長や理想を話しても、それが自分と合致しなければどんどん苦しくなる一方です。

どうせ人間、クズな一面もどこかで持ち合わせています。それなら、そんな自分もまるっと含めて大事にして、その上で自己成長やポジティブシンキングを目指しませんか?

コメント

  1. Itís hard to come by well-informed people in this particular topic, but you sound like you know what youíre talking about! Thanks

  2. 匿名 より:

    (なんて言っているんだろう・・すごい・・流石です)