偽善者と言われる理由を考察してみる。気にする価値もないけれど

世の中
スポンサーリンク

偽善者は、時に純粋な悪人の何倍も嫌われます。

ましてや今は、偽善に対してやたらと敏感な時代。結果が伴ったかどうかに関わらず、何か行動を起こしただけで叩かれる事も珍しくない時代です。

で、そんな中で飛び交う「偽善」という罵声に晒され、ついつい「自分は間違っていたのか?」などと色々気にしてしまう人も少なくありませんよね。

ですが、あえて言いましょう。その言葉自体、8割方気にする必要は全くないです。

結局ただの主観ですよね

正直、人を偽善者呼ばわりする人に対して私が言えるのってこれなんですよね。

「いや、それただの主観ですよね?」

ぶっちゃけ、善だの偽善だのというものはその人の主観でしか語れません。偽善者の基準に関しても、所詮はその人の考え方や価値観次第でコロコロ変わります。

相手の行いが善か偽善かなんて、いちいち問いかける必要のない無意味なものです。だってどれほどの聖人君子でも、見てる側が偽善と感じたらその時点で偽善者ですから。

その人の行いが善行だと思えば褒めればいいし、薄汚い偽善だと思えば毒牙にかかる前にさっさと離れればいい。

他人の行いに文句言ったりケチをつけるのは他人の勝手ですが、それをわざわざ聞き入れる義務は言われた側にはありません。

偽善と言われてもその行いが正しいと思えるなら胸を張ればいいし、間違ってると思わないなら無理に聞き入れるまでする必要はありません。

当然事態がむしろ悪化してしまったというならその結果に対して開き直りはできませんが、だからといって元々の善意まで否定する権利は誰にもないはずです。

反射的に偽善者呼ばわりする奴の心理

人は誰しも思うところや行動の動機は違うものですが……おおよそ何事に対しても「偽善だ!」と声を荒げる人には一定の法則があります。

  • その人に善行を働かれると困る
  • そもそも人の善性を信じない

おおよそ、偽善叩きに躍起になっている人はこの2種類に大別されることでしょう。

前者に関しては……まあ、アレですね。学校でいい子やってると「あいつウザくね?」みたいに目を付けられるのと似た感じです。

人間社会ではやはり一定の基準や規則があって、多くの人はそこから外れることを嫌います。

そのために迎合したり忖度したり色々とやって社会に取り入っていくのですが……自分の上を行く人がいると面白くないと感じてしまうのが人というもの。

妬み嫉みやっかみ……そういう感情で、ついつい自分より高いスコアを叩き出した者をついつい排除したくなる傾向があるわけですね。

そんな彼らの言い分を端的に表すとこうでしょう。

あいつのせいで、まるでこっちが善人ではないみたいじゃないか

あるいは、善人なんてこの世にいないと考える人もいるでしょう。

この手の人たちは……まあ、過去に何かあったと思うべきでしょうね。信じてた人の裏切り、家庭内不和、理不尽ないじめや暴力……なんにせよ、ロクな人生を歩めなかったばかりに人の温かさに触れることができなかった人たちです。

その経歴には同情しますが……何にせよまともに声を聞くだけ無意味なのは間違いありません。

どちらにも言えることは、悪意的なフィルターや色眼鏡で人を見て、その結果をさらに悪意的に解釈して相手を罵っているという点。言論の正当不当以前に、まともな言語ではない可能性も考慮すべきです。

偽善や独善でしか人は動けない

結局、あらゆる行動は裏を返してしまえば利己の類でしかないんですよ。当然です。

「あの人の笑顔が見たい」なんてのも所詮は「笑顔が見たい」という独善や勝手な願いを動機にした行いだし、善意で何かしらの行動をした以上は心のどこかで「誰か褒めてくれないかな?」なんて変な期待をしてしまうのは人として当たり前です。

「偽善者」という侮辱の多くはそこをついたものなので、心根が善良な人ほどついつい押し黙ってしまうものなんですが……正直、偽善で助けた対象は困ることがあるんですか?

そりゃあ、アピールのためにわざわざ裏で救う対象を貶めるようなマッチポンプは「偽善」と言われても仕方ないでしょう。自分の評判のために公然と一方的に愛と正義を語って人を救った気になってるなら、それもまあお笑い草と言わざるを得ません。

例えば自殺志願者に対して悩みを聞き出そうともせず、ただ上から目線で命の尊さと世の中のすばらしさを語ってお説教する。これはまあ、私の価値観と照らし合わせても癇に障るタイプの偽善です。

ですが、別にそういう「自分さえ評価されればいい」「自分がいいことをしたとさえ思えれば他人はどうなってもいい」みたいな気持ちだけで、何かしら行動をしたわけではないのでしょう?

ならば、別に偽善と言われて気にすることなんてないはずです。その善行の結果に関係するものしか、負うべき責任はありません

スポンサーリンク

偽善呼ばわりする奴の善の基準はクソ高い

悲しいかな、真理ですね。

先ほども言いましたが、人は利己的な動機がどこかに必ず含まれるもの。100%の利他なんて、それこそ人のためにいつでも死ぬような積極的な自己犠牲くらいしかないのです。

まあそんなわけだから、善という概念をきわめて厳格狭量に定義してしまうと、「善人も善行もこの世に存在しない」という答えに至ってしまうものです。

他人を偽善者呼ばわりする連中の多くは、そのことを知っています。知ったうえで善の基準を完璧なものに定義し、「ほら見ろ、善の基準に当てはまってないじゃないか」と人を非難します。

で、本物の善人も本物の善人で、利己的な欲求がひとつもないとは言い切れない。だからここで閉口し、連中の言うがままに黙ってしまう……というのがよく見られる構図です。

いやもう本当、気にしないでください。

しつこいかもしれませんが、人は利己的な欲求を捨てては生きていけません。ちょっとの承認欲求や自分勝手な理由は、何をやってもついて回ってきます。

問題なのは人助けや善行の動機が「自分が評価されたり気持ちよくなれれば相手や周囲がどうなってもいい」みたいなものかどうかと、結果がきちんと伴っているかどうかです。

逆を言えば、そこさえちゃんとしてるならあとは善か偽善かなんて知ったこっちゃありません。

実際に相手のためになってるのはどっちですか?

人の都合で動く意味の無さ

人間、基本自由です。自然の摂理から外れた、つまり物理的に不可能なことを除けば、ぶっちゃけ何をしようが自由です。

で、肝心なのは、自分の自由に対しグチグチとケチつけてくるような連中に委ねてもロクなことがありませんよという話。

これは善意に限らず何でもそうです。

もうね、ハッキリ言いましょう。善人って舐められるし馬鹿にされます。嫌ってもそこまで大きなリスクが無いので、特に意味もなく嫌われる事もあるでしょう。

ですが、それが「あなた自身が誰かのために動くこと」と何の関係があるんですか?

率直に言いましょう。どうでもいい奴からケチをつけられたところで、人生全体を見渡せばどうでもいいことがほとんどです。

大事なこととどうでもいい事の区別をつけ、どうでもいいことを必要以上に考えないようにすると生きやすさが倍増しますよ。

人はみんな好き勝手言う生き物です

「気にするな」と言ったところで、それでもついつい人の言う事を気にしてしまうのも仕方のない事なのかもしれません。

ですが、人はあくまで都合のいいように物を見て、都合よく好き勝手に物を言うものです。そんなどうでもいい声をいちいち気にしてしまっては、結局何も行動できなくなってしまいます。

ちょっとネットで検索を掛けてみたところ、「日本人は思いやり指数が世界でも下位にある」とか何とか。

無論このデータは、強者に媚びて弱者を叩く世渡り上手の多さも関係しているのかもしれません。ですが、私は「何をしてもトゲが立つから、人助けなんてしないに限る」という発想があるのではないかと思います。

日本は恥の文化と言われています。とにかく行動することを「スマートではない」「恥」としてしまう人も多い中、友人や仲間の諫言から羽虫に等しい雑音レベルの陰口まで気にしてしまっては、人助けも善行もできるものではありませんよね。

義を見てせざるは勇無きなり。余計な雑音は気にせず、自分の思った道を行くのも、「やらずに後悔」を減らすには大事なことですよ。

気にしなくていいものは気にするな!

結局、気にするものや心配が多ければ多いほど、腰が重いどころか行動や選択肢そのものが制限されます。

ましてや昨今では偽善者や善人を嫌う層も一定数いたり、「自分は悪を知っている」とドヤ顔を決めて善を叩くことでスッキリしている幼稚な連中も数多くいます。

言いたいのは、「そんな連中をいちいち気にしててやりたいこともやるべきこともやれるのか?」ってことですね。

自らが善と思えばやればいい。他者に押し付けて当然という顔でもしない限り、善も正義も非難される謂れは無いはずです。

自分が善と自信を持って言えるなら、堂々としている事。つまらん悪人に足元を掬われては、善悪以前に自分がキツくなるだけです。

コメント