理解できないものに嫌悪感を抱く、否定することに対して思うところ

善悪論
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正直、理解できないものに嫌悪感を抱く人は多いと思います。中にはそれらを怖いと感じたり、否定したりする人もいますね。

今回は、そんな「理解できないもの」に対して、思うところを述べていきたいと思います。

正直、嫌悪感はしょうがない

正直に言えば、嫌悪感を抱くのはしょうがないです。おそらく、人間の中に残った本能なのでしょう。

自然界で生きる上では、訳のわからないものが後々とんでもない爆弾となって自分や周囲を死に至らしめることがあります。

理解できないものやしたくないものを排除したくなるのは、もはや人が自然を生きている証であり、どうしても切り離せないものなのでしょう。

人間は常に、自分に理解できない事柄はなんでも否定したがるものである。

これは、フランスが誇る哲学者(というかいろんな分野に精通しすぎてよくわからない人)ブレーズ・パスカルの言葉です。

結局いつの時代でも人は訳の分からないものを切り捨てたがるし、そうやって自分たちを反映してきたことは避けようがない事実なのでしょう。

多分、本能をどうにかするのは無理です。それよりは排除を是とする気持ちをどうにかした方がいいです。

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問題なのは「否定」

まあ、「理解できないものは嫌い」。これだけなら本能的にそうできてるんだから仕方のない話です。

ですが問題があるのは、それが否定に繋がるとき。

「それが何の役に立つの?」とか。

「それ、何に使えるの?」とか。

自分に理解できない=需要がない=価値がないと、こういう方程式で結びつけて考えること。あるいはそれを是とすること。ここが問題です。

結局人にとっては、自分の価値観が世界の全てです。ここを理解しているかしていないかで、人の器は大きく変わってきます。

世の中にはいろんな需要がありますし、いろんな人がいます。決して人は考え方も癖も均一ではありません。

なのに、なぜ人はみんな自分と同じことを考えている、自分と同じことしか思っていないという前提で話を進めることができるのか?

いや、そもそも趣味にもなれば需要以前ですね。好きならばやればいい。それだけのことです。

意味不明な趣味=迷惑?


例えば筆者は迷子になるのが好きです。見知らぬ土地で迷って、地図を使わず自力で脱出するという意味不明なゲームを楽しむことがたまにあります。

これを以前なぜか人に話す機会があったのですが、その時に言われた言葉が「意味不明」「周囲の迷惑」でした。

で、ここで言いたいのは「迷惑」に対して一言。何が?

その人に何が迷惑なのかを問い詰めても、「生産性がないから」「知らない人が歩いているのは迷惑だ」とこの一点張りでした。

私は別に車道の真ん中を歩くわけでもなければ、歩きスマホをするわけでも混んでる時に立ち止まって地図を見るわけでも無い。

ただ漠然と歩き回っているだけです。

それを「迷惑」という曖昧な言葉で否定されたのは、正直今で腑に落ちません。

というか趣味に生産性っているんでしょうか?

別に遅れちゃまずい用事をわざわざ迷子になって遅刻したことなんてないし、迷ったからといって突然知らない誰かの家にあがりこんで休憩したことはありません。せいぜい公園のベンチで座って休憩したくらいです。

それを、理解できなからと言って「迷惑」という言葉を使って否定。その場にいた周囲も賛否両論といった感じの対応でしたが、そもそも趣味で勝手にやっていることに対して「否や」を唱える理由がわからない。

理解できなきゃ近づかなければいいだけですし、意味がわからなければ真似しなければいいだけです。

正直、否定する意味ってあったんでしょうか?

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常識を盾に否定は頭の悪い行動

はい、当ブログでは極力避けてきた煽り文句です。今使います。

常識を押し付けるのとか、当たり前でないものを理由なく否定するとか、ぶっちゃけ頭悪いです。

これ、私が狭量なだけでしょうか?

件の「迷惑」発言も、「どこが?」と質問しても半ギレで「とにかく迷惑」「生産性がない」「不審者だから」の一点張り。他にそれっぽい理屈でも立てればいいのに、それすらもしないんだからもうどうしようもありません。

「知らないことや理解できないことが気持ち悪い」という本能は仕方ないまでも、その本能が「あいつを潰せ」と命じてくるのに従うのはどうなんでしょうか?

あかつき
あかつき

属性としては、むしゃくしゃして犯罪を犯したりムカつく相手を殴るのと同じですね。

人間の獣性というか、ある意味ケダモノの部分を制御しきれていないというか、する気がないというか……

「評価や真っ当な肯定は難しいが、否定や罵倒は馬鹿でもできる」とどこかで誰かが言ってた気がしますが、それの典型がまさに「理解できないものを否定する」だと思っています。

理解できないものを避ける。これ自体は本能です。仕方ありません。ただ、それを否定し、攻撃し、亡きものにするのはいささか原始的というか野蛮というか、ちょっと短絡的ではないですか?

悪を攻撃する前に考えて欲しいこと

悪い奴だから攻撃する。そう思う前に、まずは「自分に理解できないものを悪と決めつけていないか」を考えることはとても重要だと思います。

例えば、「意識は決定事項に対して後付けの理由を付け加えているに過ぎない」という言説がなされている本があります。

↑これですね。

自分は相手を否定すると決めた。だから相手は悪い奴だ」と。単純に言えばこんな感じでしょうか。

あかつき
あかつき

ある意味、アドラーの感情目的論と被るような?

私がこの言説に賛否どちらの態度を示すかはどうでもいいとして、少なからず、人には「最初に決定した意志を自分なりに正当化する」という傾向があるように思えます。

よって気をつけていただきたいのは、その攻撃に本当に正当性があるかどうか

ここはもう、可能な限り俯瞰して理性で考えるしかないところです。ですが、攻撃の正統性の有無を知ることはとても重要です。

なんと言っても、特に理由もないものを後付けの理由で攻撃するのは人間的にまずいですし、何より後付けの正当化で何でもかんでも攻撃していては、いつかその行いが周囲の恨みという形で自分に返ってきます。

自分のやること、特に誰かを攻撃すると決めた時には、一度自分の決定を見直すことが重要になると思うのです。

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