自分を変える。今までの自分を捨てる。なんだか、私の周りでは、この言葉ってかなりポジティブでプラスのイメージばかりなんですよね。
なんというか、まるで今の自分や元来の自分がゴミ同然で、どうしても変わる必要があるかのよう。
正直言って、あれってなんであんなに持てはやされてるんでしょうか?
今回は私の主観がより強い内容になりますが……自分を変えるという行為のネガティブな面、注意点を考えてこうと思います。
理想の自分の正体は……

断言しましょう。漠然とした理想の先にある自分は、あなたの上位互換では決してありません。理想と思っていた自分は、ご自身の良さや特徴をすべて無視した、全くの赤の他人です。
正直ね、自分の本質なんて変わらないんですよ。というか、変えちゃいけない。変えれば変えるだけ自分がゆがんでいく一方なので。本質が気に入らなかろうとダメダメだろうと、結局自分の本質を最大限引き出して勝負するしかない。
自分の本質や長所を無視した自己変革は、成長ではありません。後遺症の残りやすいただの改造手術です。
自分が変われば世界も変わる。きっとなんでも上手くいく。ついついそう思うかもしれませんし、そういうことを言いながら自己変革のセミナーに誘う人も大勢います。
ですが、変えるというのはデメリットも大きいもの。それを考慮したうえで、本当に自分を変えるべきかどうかを考えてください。
ニンジンが玉ねぎになるのは無理ですよね
すっげー雑な例えで申し訳ありません。
ですがまあ、ニンジンが「玉ねぎになりたいなー」と願ったところで、じゃあにんじんは玉ねぎになれるのか。あるいはに玉ねぎがニンジンになる事ができるのか。正直、無理ですよね。
まあ我々は同じ人間なのでニンジンと玉ねぎほどの違いはありませんが……それでも、自分の中のニンジンという特性を玉ねぎに変えようとしたところで、せいぜい傷んで劣化した玉ねぎになれるくらいが関の山です。
なぜこんな事が起こるのか。簡単です。ニンジンにはニンジンの、玉ねぎには玉ねぎの良さがあるから。
ニンジンがニンジンの風味や甘みを無視して玉ねぎになるのは無理だし、そんなことをするくらいならニンジンとしてのうまみをもっと鍛えた方がいいですよね。
巷で良い事とされる「自分を変える」というのは、言わばニンジンが自分のうまみを「無い」と言い張って玉ねぎに変わることを言います。
多少強引な例えですが……こう考えれば、何だか途方もない事ですよね。
成長は別の場所の退化でもある
世の中、ノーリスクでプラス面だけ得られるなんて虫のいい話は存在しません。
こと自己の成長においては、「別の面での退化」という代償を支払っていることを忘れてはなりません。
例えばモテるためにルックスを磨くという行為には、多額のお金と時間がかかります。また維持コストも高いため、正直遊ぶ余裕もお金もあんまり残らないかもしれません。
アウトドアみたいな陽キャっぽい趣味なんかも、もともと読書やゲームが好きな人からするとかなり苦痛かもしれませんね。
とまあ、これらはまだマシ。なんせ趣味を変えるだけですからね。影響も我慢できる範疇という方も多いでしょう。
が、性格面はどうでしょうか。
例えばお人好しを直すなら、人平気で使い捨てるサイコパスみたいな振る舞いを心掛けるのが手っ取り早いです。
丁寧すぎて仕事が遅いのが嫌なら、雑な作業を繰り返さなければなりません。
どれも自分の本質に直結することで、良さをすべてかなぐり捨て、別の良さを手に入れる。別の良さを手に入れるという事は、別の短所も備わるという事です。
正直、自分を捨てて苦悩の末に違う自分を手に入れる努力に、その姿は見合っていますか?
人生はカードゲームではありません。失った手札分をドローするのにも、かなりの苦痛を伴います。
その苦痛と未来の自分を天秤にかけて、自分を意識して変えるのは「未来の自分の方が大きい」と判断できたときに限定しましょう。
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