人に屁理屈と言われる4つのパターン!屁理屈の意味は分かりやすく言うと「話したくない」!?

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「屁理屈を言うな」。こう怒られたり言論の根元から否定されたことはありませんか?私は過去に何度もあります。

実際、屁理屈というのは便利な言葉ですね。筋の通らないものにも通るものにも、この1言さえぶつけられてしまえば反論は一気に難しくなります。

さて、ではこの屁理屈って言葉は何なのか? 何故こっちが真っ当なことだと思った発言も「屁理屈」になってしまうのか?

その辺、個人的に思ったことを色々垂れ流していきます。

屁理屈の一般的な意味

どうのこうのいう前に、まずは「屁理屈」という言葉の意味を辞書で調べてみました。

屁理屈

まるですじの通らない理屈。道理に合わない理屈。

要するに、議題からずれていたり話の筋道を大きく外していたり、あるいはただのこじつけなどなど、話題とは何の関係もない滅茶苦茶な理屈だったり、あるいは議論の場で明らかに議題になってない事実を結び付けて相手を批判したり……

とにかく「会話する気無いだろ」としか言えないような理屈をぶつけるのが屁理屈と言ってもいいかもしれません。

「屁」という言葉には、「くだらない」「取るに足らない」「しょーもない」等の意味があり、そんな「屁のような(何の足しにもならん)理屈」を屁理屈というわけですね。

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屁理屈と言われてしまうケースは?

さて、とりあえず屁理屈の言語的な意味を軽く解釈したところで……いよいよ本編。「どうして自分の言ってることを屁理屈扱いされるのか?」「そもそも人が言う屁理屈って何?」という話について考えていきましょう。

単刀直入に言えば、人が言葉を屁理屈扱いするのは、以下の4通りのパターンが考えられます。

  1. 相手に理解できない
  2. 理解したくない不都合な理屈である
  3. 言ってる本人にとっては理屈が通らない
  4. マジモンの屁理屈

理屈か屁理屈かというのは、あくまでかなり主観を孕んだ結論付けにすぎないわけですが……ともあれ、この順番で細かく解説してみましょう。

相手に理解できない

私の周りで屁理屈だの言い訳だの言われるパターンで、おそらく1番多いのがこれですね。

どれほど正しいことを言っても、相手に正確に伝わらなければ響きません。それどころか、頭の固い人や器の小さい人は「わけのわからんことを言って言い逃れしていやがる」と、考えるよりも先に結論付けてしまう事も多々あります。

要するに、理解されなければ「わけのわからん事ばかり言いやがって」「どうせ屁理屈だろ。意味わからんし」となってしまうわけですね。

残念ながら、自分が物事や理論をわかっているからと言って相手も同じだけの理解力があるとは限りません。

というより、分野や話題によって相手の理解度に大きなバラつきがあると思っていいでしょう。

例えば合理主義で人情に疎い人に人の心や優しさを説いても、そのままでは「言い訳」「屁理屈」と解釈されてしまうでしょう。逆に感情的で場の調和を大事にする人たちに正論を言っても、まあ半分も理解されないでしょうね。

屁理屈とされる理屈の多くは、そんな「人によって知能も知識も、その使い方も違う」というある意味当たり前のことから起きた不幸な自己なのかもしれませんね。

理解したくない不都合な理屈である

人は理解したくないものは理解しませんし、見たくないものはどうしても見ないようにしてしまう生き物です。

「ただの屁理屈」という決めつけが、そんな一方的な感情から生まれてしまうことは少なくないと言えるでしょう。というか、少なくとも私の周りではかなり多いです。

例えば性善説的、牧歌的な雰囲気に身を置きたい人に悪人の存在を示唆しても、おおよそ聞き入れてもらえないでしょう。

あるいは何かの宗教を信仰している人にその宗教を批判する内容をぶつけたとして、その内容がどれほど理にかなった正論であっても逆上、反発されてしまうのは想像に難くありません。

で、そういう「理解したくない、見たくない」と感じているものを突っぱねるのに都合のいい言葉が、「そんなの屁理屈だ!」というやつですね。

あとはその亜種として、「理に適っているが認めてしまうと自分が論破される」と感じた話に対し、「屁理屈だ!」と強引に突っぱねて話をぶった切るケースも多いです。というか大人になってからは、むしろこっちのほうがよく見かけますかね?

言ってる本人にとっては理屈が通らない

こいつは「理解できない」「不都合である」双方の亜種なんですが……ある意味で一番厄介かもしれませんね。

この場合は形やそれが正しいかどうかはさておき、本人の中では完全に筋が通った主張なのです。

人はどんな理由があれ、「これが正しい」と確信すると、よっぽどのことが無い限りその考えを変えようとしません。

誰しも、その人なりの考え方やその人なりの価値観があり、そこからズレた理屈にもなると理解も薄まります。その中には、「理解すると自分の考えを捨てなければならなくなる」というものもあるはずです。

それらを頭ごなしに拒絶するのを「狭量だ」と否定してしまえば言い返しようもないですが……「人は異なるものを拒絶したくなるものだ」と考えてしまえば、屁理屈扱いされた時も少しは気持ちが収まるのではないでしょうか?

マジモンの屁理屈

さて、ここまで見て「屁理屈言うな!」と言ってる側が全部悪いのかというと、案外そうでもない。

実際に論点をずらして議題を滅茶苦茶にする人も、あるいはそうしてしまうケースも存在します。

人を説得するならまだしも、論破するだけなら屁理屈は最強の手段。正しいことを言ってる人をかっこよく論破するために、屁理屈に手をかける人も少なくありません。

まあそういう人は得てして相手の話も人格も全否定しているもの。とりあえず耳を塞いで意見を聞かずに罵倒しとけば相手は諦めるしかありませんし、質問させて言葉尻を拾い揚げ足を取りまくれば簡単に人を論破できます。

そういう人は、まあ原則相手にしちゃダメですね。会話する気の無い人と会話をしないのは、議論の大前提です。

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不都合なことは全部屁理屈に聞こえる

結局、最後に言えるのはこれなんですよね。

いかに正しいことを言っていても、自分に都合の悪いことや面目を潰されることを言われて積極的に認められる人は一握り。むしろその不都合を喜んで聞けるなど、もはや天賦の才に恵まれた人だけです。

「正しい」「間違ってる」「理論的である」と客観的な判断で物事をジャッジしても、私情は必ず混じります。

その私情が「理解するな」「耳を貸すな」と訴えかけている言葉が「屁理屈」とされるものなのです。

そういう心の声が正しいことも、まあ少なくはないでしょう。むしろ、耳を傾けた時点でダメな言葉もあります。

しかし屁理屈が全部そうかと言われると、決してそうではない。

私情はあくまで私情でしかないのです。目先の利益とは連動しても、長期的に見ればむしろ拒絶がマイナスになることも少なくありません。

いかに間違っていると感覚で思っても、まずは相手の言うことを咀嚼してみるというのが、実際の人生における正解なのでしょう。

一方話す側も「屁理屈」と感情的に切り捨てられないよう、相手の気持ちや状況にある程度配慮した言葉を選ぶのが必要かもしれません。

どれだけ正しくても相手の耳に入らなければ話したところで意味はありませんし、そもそも「正論だから」という理由だけで相手の目的すらねじ曲げては、議論する意味がありません。

屁理屈とは意味合いが違いますが……「正しい理論」を武器に相手の望みや本当の目的をただ断つだけでは、お世辞にも善行とは言えませんね。

屁理屈と言う方と言われる方。どちらが悪いかは状況によってマチマチですが……そもそも「屁理屈」を少しでも減らすために、双方相手の立場に立って意見を交換していきたいですね。

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