日本人は近頃冷たくなったのではなく、最初から冷たい

世の中
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「最近、日本人が冷たく感じます」。この前いかにも思い悩んでそうな人から相談を受けた時、そう言われました。

曰く、「苦労や苦痛は自己責任、強い人に媚びて、しわ寄せは全部弱い人に向けられる」「1度見下した相手は、どんな理由をつけてでも見下し続ける」とのこと。

……確かに。

実際、日本人は特に身内の弱者には冷たいです。というか敵対的です。

今回は、そんな日本人の冷たさや身内に対する性格の悪さの要因をいろいろ考えてみましょう。

余裕のない奴は人に冷たい生き物である

結論から言うと、日本人の多くは自分のことで手一杯です。とにかく世界を「恐ろしいものである」、自分の責任を「重いものである」等とあらゆることを深刻に考えてしまう性質は否定できません。

自分は強者を頼る以外に何もできない弱者なのに、責任は重く失敗も許されない。成長しないのも罪だがやりたいことに挑戦するのも罪。

そんな矛盾したような価値観を抱えて、ほとんどの人が生きています。

何故かというと、頼るべき強者に見捨てられたら生きる術がないから。

実際には割と思い込みに近いのですが、多くの人が挑戦を嫌がり、自分の権利を自ら握りつぶし、所属する組織に気に入られるためにキャラを作ろうとしています。

そんな生き方をしてるから、そりゃ余裕なんてないわけです。上に捨てられたら終わりなので。

みんな価値のある相手(親身な友人や上司、評判に直結する外部の人間)には気に入られなければ、優しくしなければと義務感を抱きますが、特に恩恵のない相手に優しくできるはずもありません。

ほとんどの人が見返り無しでは人に優しくできないのは古今東西どこを見渡しても同じですが、特に日本人は義務感と使命感で優しくしている傾向が強いです。

日々をそう思い詰めて生きていては、進んで人に余裕が無いのも当然です。

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道徳軽視の傾向が拍車をかける

と、「余裕のない日本人は人に優しくできない」と言ってみましたが……そうは言っても、昔はまだ善行を働く人が多かったのも事実です。

これにも思い当たる理由があって、昔は道徳的な価値観がそれなりに重視されていたのが大きいように感じます。

一方で現在はというと、善行そのものが軽視される傾向のある世界。ぶっちゃけ、に優しくすることの恩恵なんてたかが知れてるんですよね。

今や信賞必罰は仕事の成果にしか適用されないような代物(割と語源からそういうもんだけど)。善意は功労に値しません。

善は偽善に過ぎないという風潮

道徳軽視に先んじて生まれたものとして、「偽善者は軽蔑すべき存在である」という考え方もありますね。

これがどんな善行にも適用されてしまうのも、やはり人の対応が冷たくなる大きい要因かもしれませんね。

実際、口先だけ達者で行動しない偽善者は大勢いるでしょうが、善意のほぼすべてが、誰かしらから疑いをかけられてしまうようになってしまうことで、善意を見せづらくなったのも大きいです。

あとは、お節介焼きが嫌われる傾向が強まったのも逆風でしょう。

優しい人とは、自分の理想通りの結果をもたらしてくれる存在以外ありえない。こんな考え方も、道徳軽視とともに強まっているのかもしれませんね。

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常識を盾にした相互監視が負の連鎖を呼ぶ

さて、ではここからは、日本人がなぜ余裕が無いのかという点に重点を置いていきましょう。

まず結論だけ言うと、私はお互いの落ち度を指摘して密告しあう相互監視が原因ではと考えています。

誰かの管理する決まりや世間の言う常識の元、お互いがそれに反した行動をとっていないか監視し合う関係が、気の抜けなさと莫大なストレスを生み出すのは自明の理です。

例えば「人に優しくしない奴は駄目」という価値観の中では善行を働かない奴を非難し、現在の「自助が当たり前」の価値観の中では自立が難しい不遇の人を否定する……みたいな。

世の流れによって価値観そのものは変動しますが、わざとらしい善意を強制されたり「落ちぶれれば死」と暗に脅迫されたり、そういう表面的な価値観についつい振り回されてしまうわけです。

当然、真面目で従順であればあるほど、誰が決めたか知らない常識を「守らねば」と気を張ってしまいます。

自分の能力と決断力に自信が無い人ほど、「常識とルールさえ守っていればいいんだ」と、よく知りもしないまま常識に身を委ねてしまう物です。

そうして真面目に常識を信仰するうちに、「順守している自分は正しいんだ」とすら思えてしまい、やがて「常識に従わない奴は悪だ」とすら考えてしまう。

過激派宗教によく見られる発想ですが……意外と我々も近いことをやってしまっているんですね。

ともあれ、自信のない人が「自分は間違ってない」と安心するために常識や決まりを必死で守り、やがて風紀委員として周囲を監視し、他人の落ち度を非難することでまた別の人が自信を無くし……こういう負の連鎖が、日本人の従順さと余裕の無さを作ってしまっているのでしょうね。

攻撃すれば自信がつく?

常識による監視の連鎖を強める中で、必要以上に他人を糾弾したり1度でも道から外れた人間を断固として認めないような人も一定数以上います。

これも実は自信をつけるための人、ひいては生き物の習性のひとつです。

理屈はいじめとかと一緒ですね。自分たちと違う考えの相手や自分の常識が通用しない相手は、基本的に標的にされます。理由は、自分たちと異なる存在だからです。

人は異なる存在を怖がりますが、一方で軽蔑もします。そうやって意味がわからない相手を下に見ることで、相対的に「自分たちは優れている」「自分は正しい」「こいつらとは天地の差がある」と安心したいからです。

咬ませ犬の語源に近い概念ですね。

例えを出すなら、ハンセン病患者への差別や不法な隔離、もっと時代を戻すと部落制度、現代ならば貧困者やコロナ患者に向けられる「自業自得」「自己責任」の目線が近いかもしれません。

これらは「自分の常識に当てはまらないし、怖いからとりあえず排除しとこう」みたいな気持ちの他、徹底排除することにより「自分たちはこんな奴らとは違うのだ」と勝利宣言するための儀式に近い属性があるのも否定できませんね。

他にも低学歴や犯罪者、障害者などなど……なぜ彼らがそうなったのかを見向きもせず「こういう属性持ちは愚かで排除されるのがお似合いだ」と締め括られる例は枚挙に暇がありません。

世界で見れば、黒人やユダヤ人なんかもそうかもしれませんね。

いかに理由を並べようとも、我々は差別や偏見を元に一定数の人を見下す傾向があるのは否めません。そして、その感情の多くは「こいつらより自分はマシだ」「こいつらは悪だから、それを叩く自分は正義に違いない」という善悪思想を含んでいるものなのです。

日本人は特に常識を信仰し、相互監視に力を入れます。それは身内にあぶれ者を出すためだと言っても間違いではありません。

「落ちれば叩く」はストレスマッハ一直線

ドン底に落ちた人間を「すわ好機」とばかりに叩くのは日本人に限った話ではありませんが……それでも、日本では特にその傾向が強い点は否めません。

1度の転落も許さず、1度の常識外れも許さず、1度落ちれば這い上がることを断固として許さない。この傾向を指摘する人は決して少なくありませんが、イマイチ世論に響いていないのが現状です。

なぜかって、落ちた人間を叩くことが安直な安心を手に入れる1番手軽な方法だからですね。

落ちぶれた無力な人間に、反撃する力なんてありません。みんなわかっています。だからこそ、「1度でも転落した奴はゴミ」という安易な価値観をなかなか捨てられないのです。ノーリスクで殴れるし見下せるから。

余裕が無い時ほど、人は他人を叩くことで安心したいと感じてしまうものです。

ですが、そうやって人をボコボコに叩くことでスッキリしつつも、やはり心のどこかで「次は自分の番なんじゃないか」という不安を常に抱くことになります。

「自分は絶対に違う」「絶対に失敗しない」「決して過ちは犯さない」と強く信じていても、深層心理はやはり別。

例えば「道を踏み外した奴はみんな殺せ」なんて賢しらに主張する輩も、心のどこかで「自分が道を踏み外したらどうしよう」なんて考えているものです。

人は懸念や不安があるときほど、それを頑なに否定して、未来の自分かもしれない存在を必要以上に敵視します。そうやって全力で否定することで、「自分は大丈夫」と思いたいもの。

自分に「大丈夫」と言い聞かせるために、逆に不安を感じる道に向かってしまう。そうやって余裕をどんどん失ってしまうのも、日本人の特徴と言えるかもしれません。

さて、ここまで暗い内容の記事を読んでいただきありがとうございました。

最後に、冷たくされないための方法について色々考えていきましょう!

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冷たくされない方法は「ナメられない」こと

日本人はとにかく安息を求めています。それは信頼できる人かもしれませんし、あるいは「こいつと自分は違う」と確信できるような差別の矛先かも知れません。

特に不安から目を逸らして自分が安泰だと思い込むためには、どうしても差別する相手が必要不可欠です。

さて、では、自分が差別の矛先になってサンドバッグのような扱いを受けないための方法は何かというと……やはり、1番はナメられない事ですかね。

結局、下の人間を作って安心したいのは万国共通。特に慎重な日本人は、その対象が少なければ少ない方がローリスクで好ましいと感じています。

とすれば、ナメてかかられるごく一握りにさえ入らなければいいわけで、まずは下に見られないため迫力作りから始めてみましょう。

肝心なのは、

  • きっちり意見を言う「面倒くさい人」になる
  • 見た目で強そうになってみる
  • 感情的にならず規則や法に則って動く

と言ったところでしょうか。

まず、日頃からしっかり自分の意見を言えば「何を言っても構わないサンドバッグ」ではなく「面倒くさい人」になります。

面倒くさい人と言えば聞こえは悪いですが……何も悪いことではありませんよ。人がケチをつけにくくなればいいわけですから。

いい人として振舞うにせよ気ままにやっていくにせよ、まず相手から「付け入る隙がない」と思わせるのは大事なこと。

特に人に優しくしたいのなら、まず「文句言うと面倒くさいんだろうなあ」とか思わせとくのは大事なテクニックです。悲しいかな、優しさというのはナメられやすいですから……

あとは、見た目でナメられるケースも相応に多いです。

例えば童顔、低身長などなど、どうしようもない特徴から「小物」と思われるケースがあります。

どんな無茶苦茶な理由であれ、「こいつ弱そうだな」と思われてしまえば、どんな不遇や理不尽な扱いも「自業自得」と思われてしまう確率は高まるでしょう。

まあこの点はどうしようもない部分ではありますが……やはり態度である程度カバーできますし、堂々と自信ありげに振舞ってみましょう。

あかつき
あかつき

それが難しいんだっての……

とりあえず腹から声を出す練習と、相手を雑魚だと思い込むマインド作りが先……なのかな?

最後に、1度差別の対象に組み込まれると、もはや自力での脱出は困難です。

どれだけ正当な理由を並べようが怒り散らしてみようが、せいぜい「クズの分際で生意気な!」と周囲の逆切れと逆恨みを買うだけでしょうね。

自力での脱出が難しいのなら、そういう時ほど冷静にに対応です。

その場の常識や周囲の感情でどう扱われようが、我々が法で認められた1個人であることに変わりはありません。

度が過ぎる誹謗中傷、暴力など、あんまりにも行き過ぎた場合、迷わず法の力を借りましょう。

ナメた態度を改めさせるには、初手から怒るより相手が不利益を被った後にアクションを仕掛ける方が効果的です。

あるいは……こういう考え方もあるにはあります。

みんな余裕を持つのが理想なんだけどね……

まあ、本音としては「みんなが余裕を持つ」というのが理想ですが……1度できた負の悪循環はなかなか断ち切れるものではありません。

とすれば、せめてこの記事を見つけた方だけでも、軽蔑と相互社会が自信と余裕を削っていく負のスパイラルから1歩抜け出してほしいというのが正直なところです。

おそらくこんな記事を見つけた方は、どちらかというと冷淡さや軽蔑の被害者となっている方がほとんどでしょう。

だからこそ、まずはご自身がくだらない考えの餌食にならないように、そして被害者を脱却した時にまた負の連鎖に加わらないようにしていただきたいのです。

人は第1印象でほとんど決まると言いますし、脱却は困難を極めるでしょう。

ですが、どれだけ冷淡で人扱いされなくても、どれだけ侮辱や軽蔑を受けても、我々が1個人であることに変わりはありません。

どうかそれを忘れず、「仕方ない」と思わないように。そして無事に抜け出した後は、この冷たさと軽蔑のメカニズムを思い出し、自分だけでもその残虐な感情に飲み込まれないようにしてください。

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