人は自分の人生の脇役でもなければ、他人の人生の主役でもないという話

人間関係いろいろ
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陳腐ですね。ですがXでごちゃごちゃ考えて、結局記事に記すことにしました。春眠ねむむです。

題材はこれです。

多分、下手くそなりにも人生について語っている手前、避けて通れない。

自分の人生とは、他人の人生とは。その辺、色々と思うところを語っていこうと思います。

自分の人生の脇役も他人の人生の主役も「痛い」

あえてちょっとキツめの言葉を使うと、自分の人生の脇役に徹することも、他人の人生の主役を飾ることも、どちらも痛いです。

まあ当ブログで今更「キツめの言葉」も何もないわけですが……とりあえず、どっちもいいこととは言えませんね。

私は「お前は自分の人生の主役ではない」と言われたこともありますし、主役気分で他人の人生を操作しようとする人も見てきました。

正直に言えば、どちらも健全な生き方とは思えませんでした。

前者は他人にもそうあるように必死に言い聞かせ、後者も食い物にならない他人を罵倒するばかり。

どちらの生き方も、側から見ると不完全に見える。

むしろ(極端な例を取り上げてしまったせいですが)みっともなく見える。

自分をその場の主役にしなければ納得いかない人生。これは他人を食う生き方であり、立派とは言えません。

自分の人生の主役を誰かに譲る人生。他人の利益のために自分を損なう生き方であり、これもまたいい生き方とは言えません。

自分には自分の人生があり、他人には他人の人生がある。自分が他人の人生を生きることはできないし、他人に自分の人生を生きさせることもできない。

正直私は頭がいい方ではありませんが、それでもこれだけは言えます。

自分のために他人の人生を捻じ曲げるのも、他人のために自分の人生を全て捨てるのも、どちらもおかしい。

結局のところ、人は自分の人生の中でしか生きられません。それは自分自身も、他人も同じです。

その枠を超えることも、超えさせることも、どちらも素晴らしいこととは言い難いでしょう。

あかつき
あかつき

「限界を越えるのはいいことだ」って、境界線の限界じゃねーよと。

私はパーソナルスペースに入ってくる奴は許しませんけどね。

え、そういうことを言ってるわけではない?

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君子の交わり、小人の交わり

こんな言葉があります。

君子の交わりは淡きこと水のごとし

荘子の一節ですね。言葉は割とメジャーどころではありますが、荘子自体日本ではあまり有名ではないのでなんとも微妙……。

さて、簡単に言えば、「立派な人の交友は水のように淡白である」という感じの意味になるでしょうか。

要するに、「淡々とした関係の方が長続きする」みたいなことが言いたいわけです。今風に言えば、自他境界線ですね。

自分は自分の人生を生きるし、他人にも他人の人生を生きさせる。

この後にこんな句が続きます。

小人の交わりは甘きことのごとし

簡単に言えば、「ダメな奴の関係ほど濃密でベッタリした関係を求める」みたいな感じでしょうか。

他人を人生の主役にする/人の人生の主役になるとは、まさにこういうことを言うのではないでしょうか。

あかつき
あかつき

ついでに言うと「小人の交友は甘い利益がなくなるとバッサリ切られる」みたいにも書いてますね。

人生の主役?価値がなくなったら、そりゃもうバッサリ……

人を主役に据えた人生

さて、まずは自分の人生の主役を他人に譲った場合を考えてみましょうか。

・決定権は他人が譲る
・人や常識に、あるいは何かしらの集団に無条件で従って生きる
・身の安全や愛情のために自分を捨てる

簡単に言えば、他人の都合の上で人生を歩むことになります。

あかつき
あかつき

このサイトも、筆者本人が気持ちよくなるために運営してますよね(笑)

結局のところ、人は自分の都合の上でしか生きられません。そのため他人に人生の決定権を委ねても、どこかに「こいつにこう生きてくれた方が好都合」というのが出てきます。

わかりやすい例としては、子供の人生ですね。

親が子の高学歴を自慢したいばかりに、遊ばず塾に通い詰めになる。

子供向けのイベントなのに、いつの間にか親が興味を持ったブースばかりに足を運ぶ。

何でもかんでも親の言いなりになる。

自分の人生を歩めていない子供は意外と多いです。判断能力に乏しいのをいいことに、主役を親に取って代わられています。

では、この子供の人生が満たされているのか。それは本当に”善”なのか。

善かどうかに関しては完全に主観になりますが、少なくとも満たされることはほぼほぼないでしょう。

満たされるのは親ばかり。自分自身は不満があろうがつらかろうが、結局は親の都合で生きるしかない。

他人が主役の人生は、これと同じことが言えます。

そうでなければ安全を得られないかもしれない。ですがそれは不満となり、不満は愚痴となったり他人への僻みに変わり、最後には他人を同じステージに引きずり落とすことでしか満足できなくなっていく。

そんな人生を歩むのは嫌な人がほとんどでしょう。ですが、「そう生きるしかない」と自分に言い聞かせている人もまた多いと言えます。

ですが他人の都合で生きる限り、永劫幸せも安全もやってきません。

都合よく使われ、用済みになればポイ。捨てられた時に初めて、他人の人生を生きることの危険性を身をもって味わう羽目になるでしょう。

人は自分の都合でしか生きられない

いくら「人のため」と念じていても、結局人は自分のためにしか生きられません。

人のために自分の人生を捧げる人たちは、愛情や安心感を得たいケースがほとんどでしょう。

ですが、それらの思いも「その人の都合」という絶対的なものを前にすれば、一切の葛藤なく投げ捨てられることも多々あります。

人を人生の主役に置くということは、その人のモノとして生きることと同義です。

道具は、使うからこそ意味があります。よほど重要な物でない限り、大事に守ってあげる物ではありません。

ましてや自分の都合通りに生きる安い人間など、宝の端くれにも入れないでしょう。

簡単に言えば、都合のいい人間ですね。人との繋がり、そしてその先にある愛情や群れることの安全を求めた結果、逆に無感情に雑に扱われたり捨てられる危険を抱えます。

要するに商売道具とかですらなく、安さがウリのただの道具。その場で使えれば上等の、安物の消耗品です。

人生を棒に振ってまで自分に尽くす人間になど、感謝する人などほとんどいません。なぜなら、尽くすことが当たり前だからです。

自分のために消耗して当たり前。

自分のために死んで当たり前。

そんなことを思われて、一体どこに安全や愛情があるのでしょうか?

結局責任は自分に来る

自分で決めようが他人が決めようが、自分の人生は自分のものであるということに変わりはありません。

どういうことかというと、誰が決めようが、誰の都合で動こうが、結局最後には自分に返ってきます。

他人の都合で動いて自分が苦しい立場に置かれたら?

勝手に大事な決断をされて、そのせいで不幸になってしまったら?

はっきり言いましょう。相手方からすれば知ったことではないです。それどころか、自己責任論を展開して追い詰めてくることも考えられるでしょう。

あるいは見せかけの同情だけして見せる者も中にはいますが、では自分の手助けをしてくれるのかというと、安い人間に貸す手はない。

誰が何を決めようと、どういった都合で自分を動かそうと、その責任を負ってくれることはありません。どんな理不尽な命令や要求でも、拒否権がなくても、自分が動いた分は自分でなんとかするしかない。

繰り返しましょう。あなたがどうなろうと、他人目線では知ったことではないです。

そこまで考えると、他人に選択権を委ねることがいいことなのか……。

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人を恨むしかなくなる

忠節を尽くしても使い捨ての道具に成り下がる。相手に言われるがままに動いても、その結果自分がどんな目に遭っても「知ったことか」を貫き通される。ストレスばかりが溜まっていって、その行き場も限られる。

そうなったらどうなるのか。もはや人を恨む他に選択肢は残されていません。

自分を使い捨てた人を密かに恨み、使い捨てを拒む人を恨み、自発的に動ける人を恨み、最後には自分より弱いと踏んだ相手を自分と同じステージまで引きずり落とそうとする。

人に人生を踏みにじられた人間が、今度は悪意を持って人の人生を踏みにじる。なんとも皮肉な話ですが、ありえる話です。

「置き換え」という心理学用語が存在します。わかりやすい例が、八つ当たりですね。

人は到底受け入れられない感情や体験を得た時に、代償として他の誰かになんらかの感情を抱きます。

例えば今回の場合、使い捨てにされたという衝撃の事実やそうなりそうという不安感、そしてそこに付随する怒りやるせなさの感情の行き先ですね。

使い捨てにした本人にぶつけていく。これではリスクが大きすぎます。使い捨てにしてくるのが人ではなく常識などの概念であることもあるので、そもそも復讐のしようがない場合も多々あります。

となればどうするのかというと、今度は使い捨てにされそうにない人に怒りや軽蔑が向きます。

「自分たちは犠牲になっているのに、なぜあいつは……」みたいな感じでしょうか。

もしかしたら、「自由に生きるとか言っている奴を見るとムカつく」とか、「自ら動いている奴らは現実を見ていない馬鹿だ」とか、そういう気持ちがある方もいらっしゃるのかもしれません。

繰り返しましょう。使い捨てにされたという事実やそれを予知する不安感を解消するには、他人を貶めるか見下す他ありません。

「自分ばかりが」という感情の発露や「自分は大船に乗っている」という空虚な自己暗示を形にするため、自分と異なる存在を徹底的に敵視するか見下すしか、安心やカタルシスを得る方法がなくなっていきます。

ですがこれは、あくまで安心やスッキリ感。本来欲しかった安全や愛情ではありません。

感情に溺れて自分を誤魔化すことでしか、欲しかったものの穴を埋められない。最後には、そうなっていくのです。

こうなります
劣等感が強い人が攻撃的な心理的理由と対処法
いつも期待を裏切られて失望し、相手を敵視する人は……

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他人の人生を食い物にする生き方

では続けて、人の人生の主役を張る生き方はどうでしょうか。

・人の人生に割って入り、勝手に選択する
・自分の行動の悪影響を気にしない
・相手は舞台装置

調べてみれば「主人公症候群」なるものがあり、それの負の面ばかりが現れた状態に近いでしょうか。

主人公症候群の特徴として、以下の点があるようです。

・自分を特別な存在と捉える
・観衆に自分の良い面、素晴らしい体験を見せて賞賛を集めたい
・周囲を舞台装置のように捉える

要するに、人生を丸々自分が輝くための舞台のように考える状態を指します。

この中の「特別な存在という思い込み」「周囲は舞台装置」という点が、他者の人生の主役には見られます。

この手の人は、自分の人生と他人の人生の両方を同時に歩んでいます。そのため、享受するメリットも2倍。ただし相手方の人生で起きた不都合は相手が被るので、デメリットは自分一人分だけです。

選択権を自分が持つことにより相手を意のままにコントロールできるので、その快感とメリットの大きさから抜け出すのが困難な状態とも言えるでしょう。

あるいは、中には悲劇の主人公タイプもいるかもしれません。逆に相手のデメリットも勝手に自分で背負い込み、自らを不幸にするタイプです。

この場合は自分が不幸を受け持つことで相手の自立を損ない、結果として依存させてしまう結果になるかもしれません。

要するに相手の人生を食い物にするか、自分の悲劇性を表す装置にしてしまうかの2パターンが存在するわけですね。

前者の場合は、もはや利用する気満々ですね。抜け出したくても、利用することは麻薬に等しい。抜け出すには相応の精神力が必要でしょう。

後者の場合も、いわゆるミュンヒハウゼン症候群のケがありますね。他者からの憐憫により自らの承認欲求を満たし、自己陶酔します。

いずれにせよ相手の人生に悪影響を与えていることに変わりはないので、本当に相手のためを思っているのなら真剣に自立を促すべきでしょう。

自分の都合は選択に必ず入る

誰しもやましい心はあります。それは拭っても拭っても、かならず自分の心に残るものです。

この場合は「相手がどうすれば幸せか」ではなく、潜在的に「相手にどうしてほしいか」という思考で現れるでしょう。

「どうしてほしい」という心理の説明は、主に親が子供に強制する行動でつきやすいかもしれません。

わかりやすい例は、「ミュージシャンになる夢を即座に諦め、いい大学に入って公務員になること」とかでしょうか。

高学歴は何かと優遇されますし、公務員は安定しやすい職業です。子供のためを思っているのなら、確かにそうしてほしいところでしょう。

ですが、ミュージシャンになる夢は、果たして本当に諦める必要があったのでしょうか?やりたいことを禁じられ、副業禁止の公務員になってまで得る幸せとはなんなのでしょうか?

副業OKの大企業にひとまず就職し、ミュージシャンを目指して副業に励む未来もあっていいはず。

クリエイティブなことをやりたがる人です。無理矢理公務員になったところで、もしかしたら生きがいのなさで病んでしまうかもしれません。

私の知り合いに、実際に生きがいのなさで鬱病になった公務員がいます。その親が我が子に向けてなんと言ったのか。

「死んでも公務員を続けろ。その安定が必ず幸せにつながる」

これこそが自分の都合ばかりを取り入れた、いわゆる”あなたのため”の選択です。

安定した職に死んでもしがみついたところで、それが幸せにつながるかどうかは話が別。それどころか、仮に復職できても常に休職・自殺の危険性がつきまといます。

それを「幸せ」と呼べる理由は、おそらく言われた側本人にはないでしょう。それどころか不幸になってしまい、そこから一生抜け出せない可能性に常に襲われつづけます。

これこそまさに、善意のつもりで自分の都合だけを話す典型例になります。

結局人は完全な善意で人の人生を決めることはできず、相手に「こうなってほしい」という思いを馳せて、それに則った決断しかできないのです。

こうなってませんか?
「あなたのためを思って」なんて気持ち悪いエゴ満載のワードについて

そもそも自己責任

そもそも人生の選択は、他人が強制して決めようが当人の自己責任です。決断のしわ寄せは、必ず当人にきます。

自分の都合で相手の人生を選択し、その責任は当人が負う。これは、果たして健全な状態と言えるのでしょうか?

ここはあくまで当人の主観になりますが……私はそうは思いません。

そもそも健全を求めず利益を接収したいのなら最適解に近いですが、自分の決断の不利益を押し付けるのは立派な悪行と言えるでしょう。

悪行を重ねる方が得することは多いですが、意図せずそうなっているならばそれは直さなければなりません。

人生の責任や決断の結果は、結局はその人自身に降りかかってきます。

自分が「こうなってほしい」と決断した結果、相手が苦しむことになっていないか?

相手が追い詰められ、メンタルを病んでしまう可能性もあるのではないか?

自分の安易な決断のせいで、何か大きな不利益や負債を抱え込む可能性があるのではないか?

考えることは無数にあります。

人の人生の選択権を握るということは、相手にのしかかる責任を自らが肩代わりすることと同義。そしてそれは、人の身で完全にできることではありません。

自分のせいで鬱病になってしまった人がいるとして、その人の面倒を見るまではできても、即座にメンタルを回復させることはできません。

あなたのせいで相手が誤った道を進んで莫大な負債を抱えてしまっても、どうすることもできないでしょう。

どうあっても、人生は当人の自己責任です。決断を代行するということは、どこまで行っても「自分に好都合な選択をさせ、不利益は当人に押し付ける」ということに変わりはありません。

本気で自己利益以外どうでもいいなら割と最適解

個人的には軽蔑の対象ですが……正直、「相手の人生なんて知ったことではない!自分の利益しか考えたくない!」と考えた場合、他人の人生で主役を張ることは悪い選択肢ではありません。むしろ正解に近いです。

他人を都合よくコントロールし、不都合は相手自身に負わせ、自分はメリットだけを享受する。そして利用価値がなくなれば、容赦なく捨てていく。

大きなことを成し遂げたり楽をするには、マンパワーが不可欠です。そのマンパワーをタダ同然で搾取できるわけなので、いわゆる強い生き方の一つと言えるでしょう。

とはいえ、人道的には問題がありますね。

悪の道に生きると何かと得しますが、そのぶん恨みは買っていきます。即席の利益は享受できても、うまく立ち回らなければ失速、下手をすると一人勝ちのシステムは崩壊してしまうでしょう。

うまく立ち回る自信があるならば、他人の人生は自分の幸せを探究する上で大いに利用できます。

もっとも、後ろから刺される可能性は常に留意した方がいいでしょう。

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自分の人生を生きるとは

自分の人生を生きるとはどういうことなのか。本項では、それを考えてみましょう。

自分で考えて自分で決める

自分の人生の決定権は、他人にあっていいものではありません。常に自分自身で持っておく必要があるでしょう。

当然、人にアドバイスを求めるのは構いません。ですが、「こうした方がいいよ」という言葉には要注意ですね。

明確な答えの提示は多くの人を安心させますが、それこそまさにコントロールそのものです。

善意のつもりであっても、たとえ本当に善意でも、それはその人の価値観・その人が選ぶ正解にすぎません。

あかつき
あかつき

完全な善意の場合でも、「自分は間違っていない」という価値観の補強に利用されてるだけな気がしますけどねー

自分自身の納得いく答えは、自分しか持ち合わせていません。そして誰がどのように決めたところで、その責任を負わされるのは自分自身です。

人の価値観や提示された選択肢に同化するのは気が楽になっていいですが、その責任は必ず自分に訪れます。

全て自己責任ならば、選択するのも自分がいい。

少なくとも私はそう思います。

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その場の主役とは限らない

ここでよくあるのが、「自分は人生の主役なんだから」とその場で主役を張ろうとしてもうまくいかず、消沈するか周囲に恨みを募らせるパターン。

自分の人生の主役とは、あくまで自分の人生という小さな影響下で通用すること。多くの場合、仕事や社交の場での主役を張れることは少ないでしょう。

個人的な見解を垂れ流すなら、たとえ村人Aであっても村人Aなりの人生があり、本人の中では村人Aが主役の人生が展開されます。

どれだけ目立たなくてもダサくても、それは「自分の人生の主役を張れない」ということと同義ではありません。

脇役には脇役なりに、それ以下のモブキャラならモブキャラなりに、誰にも見向きもされないところでそのキャラ特有の人生が展開されていきます。

小説やRPGの主役は勇者のみですが、必ずしも勇者になることだけが自分の人生の主役を張ることではありません。

たとえその場の主役を降りたとしても、人生の主役は間違いなく自分自身です。

場の主人公と人生の主人公は別物。これを覚えておくと、少しは気が楽になるはずです。

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他人の人生では所詮は脇役

「自分は主人公だから、好きなように振る舞ってかまわない」。まさに主人公症候群の典型的な症状の一つです。

ですが個人的な意見として、これには意を唱えたい。

自分の人生の主役は自分。ですが同時に、他人の人生はその人が主役。自分は脇役ではありません。

脇役が完全に主役のポジションを持っていったら?

いわゆるメアリー・スーが現れたら、主人公の立場はどうなるのか?

多くの場合、物語は大いにしらけてしまいます。

自分が主人公である以上どのように生きるのも自由ですが、それは「他人の自由を必要以上に侵害しない」という条件付きです。

他人の人生を食ってでも、自分は主役として輝きたい。好き勝手生きたい。

望んだ幸せを手に入れやすいのは、人を食い物にし、使い捨て、自分一人を主人公として輝かせるタイプの人たちです。

ですが、本当にそれは善いあり方なのか?

結局は「幸せ」という結果が全て。人生にいいも悪いもありませんが、あくまで個人的な意見として疑問を呈させていただきます。

あかつき
あかつき

善悪も所詮は主観です。真に受けることもないと思いますけどねー

人の人生を食うことの危険性

人の人生を食うにせよ食わないにせよ、これは覚えておいて損はないでしょう。

自分には自分が主役の人生があるように、他人には他人が主役の人生が展開されます。

その人生を侵食するということは、先述の通り脇役の度を越して相手の人生の舞台を占有することと同義。

それが何をもたらすのかというと、主役の座のすげ替え、そこから生じる相手からの恨みの蓄積です。

恨まれれば、当然危険が生じます。

最初はさらに弱い者に恨みを置き換え、いじめや非難で同じように誰かの人生を壊すでしょう。

ですが、度を越せばついには完全な怒りとして怨みの感情は放出されます。

自分と同等以上の力やメンタルを持つ者に報復を示唆される。

もはや全てがどうでもよくなり、やぶれかぶれになる。

これだけで、人は権威者にすら牙を剥きます。革命などが、それを物語っています。

搾取は生かさず殺さずが基本です。その気がないなら、妙な恨みを買う前にその人の人生から立ち去るべきでしょう。

いずれにせよ、人生を奪われたと理解した人の恨みは恐ろしいものがあります。それは、どうあっても覚えておいて損はないはずです。

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まとめ

今回は自分や他人の人生について、長々と語ってみました。

最後に留意していただきたいのは、あくまで私の主観に過ぎないということ。

他人に人生を奪わせて後悔しないのならば私の言葉に意味はありませんし、他人の人生を食い物にしたい人にとって有益な情報はほとんどなかったのではと。

とはいえ、私なりに言いたいこと、正しいと思うことをまとめたつもりではあります。

人生に正解なし。私が言っていることも、これを読んでいるあなたの人生の絶対的な正解ではありませんが……もし何かしらのヒントになったのであれば非常に嬉しいです。

といったところで、今回はここまでとさせていただきます。

最近はエニアグラムの話ばかりまとめていた気がしますが、あれも自分や他人の外殻を理解するには非常に役立つ理論。

自他の人生に関係ありませんが、人生の羅針盤とするのも役立つかもしれませんよ。

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